Yuki-KG’s blog

アメリカやイギリス、英語のことなど書いています。

英語で社会科〜世界史(3)〜

中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。

「英語で社会科〜世界史(2)〜」はこちらをごらんください。

Contents

ヨーロッパ

西ヨーロッパでは、6世紀にイタリアのモンテ=カシノ (Monte Cassino) に設立されたのを皮切りに、修道院 (monastery) が各地に広まっていきました。モンテ=カシノ修道院 (Monte Cassino Abbey) の創始者ヌルシアのベネディクトゥス (Benedict of Nursia) は「清貧・純潔・服従」の3つの戒律と「祈り、かつ働け (ora et labora / pray and work)」というスローガン (Rule of Saint Benedict) を掲げ、生産労働を奨励しました。

Monte Cassino Opactwo 1.JPG
モンテ=カシノ修道院 (Monte Cassino Abbey)
By Radomił, CC BY-SA 3.0, Link

聖職者や修道士を中心に学問が深められ、とりわけ神学 (theology) が最高の学問とされ、哲学 (philosophy) は神学の婢 (Philosophia Ancilla Theologiae)としてその下に置かれました。学問の世界では当時の聖書の言葉であるラテン語 (Latin language) が共通語として用いられました。

しかし、修道院は次第に世俗化が進み、聖職を売買するなど腐敗化が進んでいったため、10世紀以降、フランスのクリュニー修道院 (Cluny Abbey) を中心にそういった腐敗を粛正・浄化していく運動がおこりました。特にクリュニー修道院出身のローマ教皇グレゴリウス7世 (Gregory VII) は、聖職者の妻帯禁止などの教会改革を精力的に進め、聖職者の任免権を世俗の権力から教会に取り戻すべく、当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 (Holy Roman Emperor Henry IV) と叙任権 (investiture) を巡って激しく対立、教皇は皇帝を破門し (excommunicate) 、皇帝は1077年にイタリアのカノッサ (the Castle of Canossa) で懺悔し (do penance) 許されるという事件に発展しました。これをカノッサの屈辱 (the Humiliation of Canossa) あるいはカノッサへの道 (the Walk to Canossa / the Road to Canossa) といいます。

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カノッサ城での神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世
By Eduard Schwoiser (1826 — 1902) - http://www.heiligenlexikon.de/Glossar/Investiturstreit.htm, Public Domain, Link

叙任権闘争 (the Investiture Controversy) 自体は、1122年にヴォルムス協約 (the Concordat of Worms) により、叙任権は教皇が持つ形で妥協が成立し、終結しました。

しかし、12世紀末ごろ、教皇インノケンティウス3世 (Pope Innocent III) の時代に、神聖ローマ皇帝、イギリス王、フランス王らを次々と破門するなど、ローマ教皇が専横をふるいました。

西ヨーロッパでは、11世紀末から約200年間にかけて、十字軍 (crusade) の遠征がありました。これは封建制度 (feudalism) が安定してきたこともあり、人口が増加して膨張してきた西ヨーロッパ社会が、大開墾時代やイベリア半島でのキリスト教復活運動(レコンキスタ Reconquista)などと合わせておこった運動であり、トルコ系イスラーム王朝であるセルジューク朝 (the Seljuk Empire) が小アジアに進出してビザンツ帝国 (the Byzantine Empire) に迫ってきたのを契機に、ビザンツ皇帝 (Byzantine emperor) とローマ教皇ウルバヌス2世 (Pope Urban II) とが協議し、教皇が1095年にクレルモン宗教会議 (the Council of Clermont) による対イスラーム遠征の提唱を行って聖地 (Holy Land) イェルサレム (Jerusalem) の奪回を目指して遠征軍を派遣することが決定されたものです。

map of the Crusader States (1135)
イェルサレム王国の範囲(1135年) By Amitchell125 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

第1回十字軍 (the First Crusade) は1096年にフランス諸侯により組織され、イェルサレムを奪回、そこにイェルサレム王国 (the Kingdom of Jerusalem) を建国しました。イェルサレム王国はすぐに攻められたため1147年に独仏で第2回十字軍 (the Second Crusade) を派遣しましたが、救援に失敗し1149年に帰国しました。1189年にエジプトのスンナ派王朝・アイユーブ朝 (the Ayyubid dynasty) が占領したイェルサレム再奪還を目指して英独仏で第3回十字軍 (the Third Crusade) を組織しますが、独皇帝が中途で死亡、英仏も反目しあい、英王リチャード1世 (Richard I) 単独でアイユーブ朝創始者サラディン (Saladin) と交戦し、1192年に講和しました。

1202年の第4回十字軍 (the Fourth Crusade) は宗教的目的ではなく、ヴェネツィア商人の要求でビザンツ帝国を攻め、コンスタンティノープル (Constantinople) を占領してラテン帝国 (the Latin Empire) を建国しました。

第5回十字軍は1228年に始まり、アイユーブ朝と交渉してイェルサレムを回復しますが、長続きしませんでした。さらに1248年と1270年にそれぞれ第6回、第7回十字軍がエジプト、チュニジアを攻撃しましたが、いずれも失敗しました。

このように十字軍による遠征はほとんど失敗したため、教皇の権威が失墜し、騎士や兵士は戦死、疲弊などで家系断絶や没落していき、国王の権力が強まって中央集権化が進みました。一方で地中海経由の東方貿易が進むことで北イタリアの諸都市が経済的に繁栄し、またビザンツ文化 (the Byzantine culture) やイスラーム文化の元で蓄積されたギリシア・ローマ文化 (the Greco-Roman culture) が伝わることで、のちのイタリアでのルネサンス (renaissance) 運動につながっていきました。またイスラーム科学の文献も東方からもたらされ、ギリシア語やアラビア語からラテン語への翻訳が行われることにより、学問の発展が進みました。

建築 (architecture) は、初期はトルコのハギア=ソフィア聖堂 (Hagia Sophia) やイタリアのサン=ヴィターレ聖堂 (Basilica of San Vitale) などのビザンツ様式 (the Byzantine style) の影響が強く、ドーム (dome) やモザイク壁画などがみられましたが、11世紀ごろからはイタリアのピサ大聖堂 (Pisa Cathedral) やドイツのヴォルムス大聖堂 (Worms Cathedral) にみられるような重厚なロマネスク様式 (the Romanesque style) が発達し、半円状のアーチや厚い石壁、小さい窓などが特徴でした。12世紀からはフランスのアミアン大聖堂 (Amiens Cathedral)、シャルトル大聖堂 (Chartres Cathedral)、ノートルダム大聖堂 (Notre-Dame)、ドイツのケルン大聖堂 (Cologne Cathedral)、イギリスのカンタベリ大聖堂 (Canterbury Cathedral) などのゴシック様式 (the Gothic style) の教会が建てられるようになり、尖頭アーチや高い塔、広い窓、ステンドグラス (stained glass) などが特徴でした。

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サン=ヴィターレ聖堂 By Commonists - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

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ピサ大聖堂 By Luca Aless - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

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ヴォルムス大聖堂 CC BY-SA 3.0, Link

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アミアン大聖堂 By Jean-Pol GRANDMONT - Own work, CC BY 3.0, Link

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ノートルダム大聖堂(内部) By Peter K Burian - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

文学 (literature) は、騎士の武功や恋愛模様などをテーマにした騎士道文学 (chivalric romance) が口語で広まり、吟遊詩人がこれらを叙情詩 (epic poem) にして宮廷で歌いました。ドイツの「ニーベルンゲンの歌 (Nibelungenlied / The Song of the Nibelungs)」、フランスの「ローランの歌 (The Song of Roland)」、イギリスの「アーサー王物語 (Arthurian Romance)」などが有名です。

11世紀頃になると農業生産が発展し余剰生産物が生まれたため、それらを市場で取引するようになり、商業が発展しました。貨幣経済 (money economy) は都市の人口を増やしさらに都市を発展させていきました。

地中海商業圏では港市ヴェネツィア (Venice) やジェノヴァ (Genoa)、ピサ (Pisa) などが香辛料や絹織物などを輸入し、内陸のフィレンツェ (Florence) は毛織物や金融業で発展しました。北ヨーロッパ商業圏ではドイツのリューベックハンブルク (Hamburg)、ブレーメン (Bremen) がハンザ同盟 (the Hanseatic League) を結び、木材、海産物、毛皮などの取引で栄え、フランドル地方 (Flanders) のブルージュ (Bruges) やガン (Ghent)、アントウェルペン (Antwerp) では毛織物生産が盛んになりました。イングランド (England) のロンドン (London) は羊毛のフランドル地方への地方への輸出拠点として、ロシアのノヴゴロド (Novgorod)、モスクワ (Moscow)、ウクライナキーウ (Kyiv) では毛皮、木材を扱いました。

フランスのパリ (Paris)、ボルドー (Bordeaux)、リヨン (Lyon)、シャンパーニュ (Champaine) 地方や、南ドイツのアウクスブルク (Augsburg) やニュルンベルク (Nuremberg) といった都市は、地中海商業圏と北ヨーロッパ商業圏を結ぶ内陸通商路として発展しました。

勢力が強くなった都市は、国王や諸侯から特許状を与えられて行政、司法などの自治権を持つ自治都市となりました。自治都市では同業の組合であるギルド (guild) が中心となって運営し、初めは商人による商人ギルド (merchant guild) が自治権を独占していましたが、次第に手工業者による同職ギルド (craft guild) が対抗してツンフト闘争 (Zunftrevolution) を起こすようになりました。

大学 (university) も教授や学生のギルドとして12世紀ごろに生まれました。主な大学には神学、法学、医学の学部があり、その下に人文学部が置かれて一般教養 (liberal arts) が教えられました。

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靴職人ギルド
By Jost Amman - Paul Lacroix, Manners, Custom and Dress During the Middle Ages and During the Renaissance Period, available freely at Project Gutenberg, Public Domain, Link

自治都市同士が同盟 (league) を結び皇帝や諸侯に対抗することもあり、イタリアのロンバルディア同盟 (the Lombard League) やドイツのハンザ同盟 (the Hanseatic League) などが有名です。

14世紀になると、西ヨーロッパの気候が寒冷化して凶作や飢饉が増えてきました。さらにこの時期にヨーロッパではペスト (plague) が大流行し、これにより農業人口が減少しました。そのため農民の身分が緩和されていき、イギリスでは独立自営農民(ヨーマン Yeoman)に成長していったりしました。一部の封建領主は農民支配を再強化しようとしましたが、1358年のジャックリーの乱 (the Jacquerie) や1381年のワット=タイラーの乱 (Peasants' Revolt / Wat Tyler's Rebellion) のような農民一揆により抵抗されました。このようにして封建社会が次第に変容していきました。

市民が力をつける一方、騎士や中小領主は没落していき、国王の宮廷に使える廷臣 (courtier) となっていきました。

教皇の力も衰えていきました。14世紀初めにフランス王フィリップ4世 (Philip IV) は聖職者への課税を強化しようとし、これに反発する教皇ボニファティウス8世 (Pope Boniface VIII) は、1303年にローマ近郊のアナーニ (Anagni) で王に捕らえられ、虐待を受けて死亡しました。この事件のあと、フランス王は1309年に教皇庁アヴィニョン (Avignon) に移し、教皇を70年間支配下に起きました。これを教皇のバビロン捕囚 (the Babylonian Captivity of the Papacy) といいます。これ以来、ローマに教皇が戻るとアヴィニョンにも別の皇帝が王によって立てられる教会大分裂 (the Western Schism) が起こりました。

14世紀ごろ、イギリスの神学者ジョン=ウィクリフ (John Wycliffe) が聖書を英訳しました。ウィクリフに共鳴したベーメンボヘミア)の神学者ヤン=フス (Jan Hus) は、教会を批判するようになりました。神聖ローマ皇帝コンスタンツ公会議 (the Council of Constance) を提唱し、ローマ教皇を正統として教会大分裂を解決しましたが、この会議でフスは異端 (heretic) と認定され火刑に処されました。これに反発したフス派 (Hussites) の住民が1419年に教皇や皇帝に対してフス戦争 (the Hussite Wars) を起こしました。

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コンスタンツ公会議のフス
By Václav Brožík - W.Rebel, Public Domain, Link

イギリス・フランス

イギリスは、初めノルマン朝が征服していましたが、12世紀半ばに反乱が起こり、ノルマン朝の血統をひくアンジュー伯 (the Count of Anjou) がイギリス王ヘンリ2世 (Henry II) として1154年に即位し、プランタジネット朝 (the House of Plantagenet) が始まりました。

プランタジネット朝はフランスにもかなりの領地を持っていましたが、ジョン王 (King John) の時代にフランス王フィリップ2世 (Philip II) に敗れ、フランスの領地の大部分を失いました。財政難に陥ったイギリスは諸侯や聖職者に重税を課そうとしましたが、反発を受け、1215年に王は大憲章(マグナ=カルタ Magna Carta)を認めさせられました。これはイギリス立憲政治の基本を示す文書となりました。

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マグナ=カルタ(1225年版)
By Originally uploaded by Oldie. - Retrieved from [1]., Public Domain, Link

ジョン王の子ヘンリ3世 (Henry III) はマグナ=カルタを無視して重税を課したため、レスター伯爵 (the Earl of Leicester) シモン=ド=モンフォール (Simon de Montfort) らが反乱を起こし、1265年、高位聖職者や大貴族、騎士、都市代表などからなる議会を招集しました。これがイギリス議会の起源となります。

彼らと国王との間の対立を調整するため、1295年、エドワード1世国王 (King Edward I) は模範議会 (the Model Parliament) という身分制議会を招集しました。

議会はもともとは一院制 (unicameral) ものでしたが、1343年には貴族院 (the House of Lords) と庶民院 (the House of Commons) の二院制の (bicameral) 議会が始まりました。貴族院は高位聖職者や大貴族から構成され、庶民院は州や都市の代表者、そして地主層であるジェントリ (gentry) から構成されていました。1414年には庶民院貴族院の地位が対等であるとされました。

フランスは、カペー朝 (the Capetian dynasty) のもと、フィリップ2世 (Philip II) がイギリスから大陸の領土の大半を奪い、ルイ9世 (Louis IX) はアルビジョワ派 (Albigensians)(カタリ派 Catharism)を平定し南フランスに勢力を拡大しました。フィリップ4世は聖職者への課税をめぐって前述のとおり教皇ボニファティウス8世と対立、1302年に聖職者・貴族・平民からなる三部会 (the Estates General / the States-General) を招集して教皇をおさえ王権を強化しました。

フランスのカペー朝は14世紀前半に断絶し、1328年からヴァロワ朝 (the House of Valois) が興りました。そのときイギリス国王だったエドワード3世 (Edward III) は、母がカペー朝出身だったことからフランス王の王位継承権を主張、1339年から英仏間で百年戦争 (the Hundred Years' War) が始まりました。

百年戦争の前半はイギリスが優勢で、1346年のクレシーの戦い (the Battle of Crécy) や1356年のポワティエの戦い (the Battle of Poitiers) でフランスに大勝しましたが、フランス王シャルル7世 (Charles VII) がオルレアン包囲 (the siege of Orléans) を受けてフランス王国崩壊のピンチに陥ったとき、農民の娘であったジャンヌ=ダルク (Joan of Arc) が神の啓示を受け、フランス軍を率いて1429年にオルレアン (Orléans) を解放、以来士気の高まったフランス軍が快進撃を続け、1453年にフランスの勝利で終わりました。

その後、イギリスでランカスター家 (the House of Lancaster) とヨーク家 (the House of York) の王位継承をめぐって両家の間で争いが起こり、多くの騎士や諸侯が敵味方に分かれて激しく戦いました。ランカスター家の家紋が赤いバラ、ヨーク家の家紋が白いバラだったため、この争いをバラ戦争 (the Wars of the Roses) といいます。これはランカスター家の勝利で終わり、そこのヘンリ=テューダー (Henry Tudor) が1485年にヘンリ7世 (Henry VII) として即位、テューダー朝 (the House of Tudor) が始まりました。ヘンリ7世は星室庁裁判所 (the Court of Star Chamber) を利用して敵対する貴族を処罰していきました。

スペイン・ポルトガル

イベリア半島イスラーム後ウマイヤ朝 (the Emirate of Córdoba) に支配されていましたが、レコンキスタ (Reconquista) というキリスト教領土回復運動によってキリスト教圏が奪回し、回復地にカスティリャ (Castile)、アラゴン (Aragon)、ポルトガル (Portugal) の3つの王国ができました。カスティリャイザベル (Isabella I) 王女とアラゴンフェルナンド (Ferdinand II) 王子が結婚し、1479年に両国は併合されてスペイン王国 (the Spanish Empire) となりました。

1492年にナスル朝 (the Nasrid dynasty) の首都グラナダ (Granada) が陥落し、レコンキスタは終了しました。

ポルトガル国王ジョアン2世 (King John II) はアフリカ西岸の探検を進め、インド航路を開拓しました。

14〜16世紀にかけて、イタリアで始まったルネサンス (renaissance) が盛んになりました。

この頃は、大航海時代と呼ばれ、特にスペインやポルトガルが新航路を開拓していきました。クリストファー=コロンブス (Christopher Columbus) が1492年に西インド諸島に到着したのを皮切りに、1498年にはバスコ=ダ=ガマ (Vasco da Gama) がアフリカ大陸南端の喜望峰 (the Cape of Good Hope) を回ってインドに到着し、1522年にはフェルディナンド=マゼラン (Ferdinand Magellan) が世界一周を達成しました。

ドイツ・スイス・イタリア・北欧

神聖ローマ皇帝 (the Holy Roman Emperor) のイタリア政策によりドイツ国内の統治がおろそかになり、13世紀後半には実質的に皇帝不在の大空位時代 (the Great Interregnum) となりました。1356年に皇帝カール4世 (Charles IV) は金印勅書(黄金文書) (golden bull) を発布、聖俗7人の選帝侯 (prince-elector) の皇帝選出権を認めました。

1438年から皇帝はハプスブルク家 (the House of Habsburg) の世襲制となりましたが、国内統一がうまくいかず、国内に300以上の領邦 (territorial state) が分立しました。またブランデンブルク辺境伯 (the Margraviate of Brandenburg) やドイツ騎士団 (the Teutonic Order) などが東方に新たに諸侯領を拡大しました。

スイスでは、1499年にハプスブルク家から13州が独立しました。

イタリア北部ではヴェネツィア (Venice)、ジェノヴァ (Genoa)、フィレンツェ (Florence)、ミラノ (Milan) などの都市共和国 (city-state) が分立、各都市や都市内で皇帝党(ギベリン Ghibellines)と教皇党(ゲルフ Guelphs)が争いを繰り広げました。イタリア南部では両シチリア王国で貴族の反乱が起こり、1282年にシチリア王国 (the Kingdom of Sicily) とナポリ王国 (the Kingdom of Naples) に分裂しました。

北欧ではデンマーク女王マルグレーテ (Margaret I) 主導によりカルマル同盟 (the Kalmar Union) が結ばれ、デンマークスウェーデンノルウェーの3国が同君連合の王国を結成しました。

東欧

カルパティア山脈 (the Carpathian Mountains) の北方を原住地とし6世紀以降に東ヨーロッパに広がったスラヴ人 (Slavs) には、

がいます。東スラヴ人と南スラヴ人ビザンツ文化 (the Byzantine culture) やギリシア正教 (Greek Orthodox Church) の影響を、西スラヴ人西欧文化ローマ・カトリックの影響を強く受けました。

スラヴ人は、ノルマン人 (Normans) がロシア方面に建てたノヴゴロド (the Novgorod Republic)とキエフ公国 (Kievan Rus') でノルマン人と同化していきました。キエフ公国はギリシア正教を国教とし、10世紀末にウラディミル1世 (Vladmir the Great) が領土を広げましたが、次第に分裂し、モンゴル人が南ロシアに建てたキプチャク=ハン朝 (the Kipchak Khanate / the Golden Holde) の支配下に入りました。以降約240年間をタタールのくびき (the Tatar yoke) といいます。

15世紀にはモスクワ大公国 (the Grand Duchy of Moscow) の大公 (grand duke) イヴァン3世 (Ivan III) がビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚しツァーリ (Tsar) という皇帝位を自称し、モンゴル支配から脱しました。

スラヴ人のうちセルビア人は、ビザンツ帝国に服属、ギリシア正教に改宗し、やがて王国を建てました。クロアティア人とスロヴェニア人は9世紀にフランク王国 (Francia) の支配下に入ってカトリックに改宗、14世紀にはオスマン帝国 (the Ottoman Empire) に服属しました。

西スラヴ人カトリックに改宗、ポーランド人は10世紀にピアスト朝 (the Piast dynasty)、14世紀にヤゲウォ朝 (the Jagiellonian dynasty) を建国、14世紀にはリトアニア (Lithuania) と連携してドイツ騎士団を破りました。チェック人は10世紀にベーメンボヘミア)王国 (the Duchy of Bohemia) を建てましたが、やがて神聖ローマ帝国支配下に入りました。

スラヴ人でないブルガール人 (Bulgars) やマジャール人 (Magyars) はアジア系と言われます。ブルガール人は7世紀にブルガリア王国 (the Bulgarian Empire) を建国しましたが、次第にスラヴ化してギリシア正教に改宗しビザンツ帝国支配下に入りました。マジャール人は10世紀末にハンガリー王朝を建て、カトリックを受け入れました。ルーマニア (Romanians) はラテン系民族ですが、宗教はギリシア正教です。

イスラーム世界

中東

イスラーム世界は10世紀ごろにはアッバース朝 (the Abbasid Caliphate) を中心にイベリア半島後ウマイヤ朝 (the Emirate of Córdoba)、チュニジアシーア派王朝であるファーティマ朝 (the Fatimid dynasty)、カスピ海南部のシーア派ブワイフ朝 (the Buyid dynasty / the Buwayhid dynasty) などに別れてそれぞれ独立王朝を構成していました。同時期に、モンゴル高原からトルコ人中央アジアトルキスタン Turkestan / Turkistan)に移住し、アッバース朝と出会いました。アッバース朝トルコ人の騎馬戦士としての能力を高く買い、マムルーク (Mamluk) というトルコ人奴隷を親衛隊に起用するなどして、トルコ人イスラーム化が始まりました。

8世紀にイスラーム勢力がトルキスタンに進出し、875年には西トルキスタンに最初のイラン系イスラーム王朝であるサーマーン朝 (the Samanid Empire) が建国されました。この王朝下でトルコ系民族のイスラーム化が進み、10世紀には、最初のトルコ系イスラーム王朝であるカラ=ハン朝 (the Kara-Khanid Khanate) が生まれました。カラ=ハン朝は999年、サーマーン朝を滅ぼしました。

Extent of the Samanid realm at the death of Nasr II in 943
サーマーン朝の範囲(945年) By Original file by Ro4444, edited by me - Cambridge History of Iran vol 4, Iranica, etc. Might add a more detailed list in the future., CC BY-SA 4.0, Link

Kara Khanid Khanate, c. 1000.
カラ=ハン朝の範囲(1000年ごろ) By Gabagool - Own work, CC BY 3.0, Link

1055年、トルコ系のセルジューク家の首長トゥグリル=ベク (Tughril Beg) がブワイフ朝を倒してバグダード (Baghdad) に入り、アッバース朝のカリフからスルタン (sultan)(支配者)の称号を与えられ、セルジューク朝 (the Seljuk Empire) を開きました。

セルジューク朝は3代目スルタン、マリク=シャー (Malik Shah) の代に、宰相ニザーム=アルムルク (Nizām al-Mulk) の補佐を得て発展、スンナ派 (Sunna) を奉じてシーア派ファーティマ朝と対決しました。さらには領土をシリア、パレスチナアラビア半島まで広げたほか、ビザンツ帝国から小アジアを奪い取りました。

Seljuk Empire at its greatest extent in 1092, upon the death of Malik Shah I.[a]
セルジューク朝 By MapMaster - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

セルジューク朝は領内にマドラサ (madrassa) という学院を設立してスンナ派の神学や法学の普及に努めていきましたが、11世紀末に分裂、衰退し、1194年に滅亡しました。

エジプト

エジプトでは、1169年にクルド人サラディン (Saladin) がシーア派だったファーティマ朝の実権を握ってアイユーブ朝 (the Ayyubid dynasty) を建国、スンナ派の信仰を復活させました。またサラディンイェルサレム王国からイェルサレムを奪回したり、十字軍の侵攻を防ぐなどして、イスラーム世界を防衛しました。

Ayyubid Sultanate of Egypt (in pink) at the death of Saladin in 1193
アイユーブ朝 By Ro4444 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

アイユーブ朝カイロ (Cairo) を首都とし、カイロにファーティマ朝時代にできたアズハル学院 (the Al-Azhar Mosque) をスンナ派進学の中心としたほか、カイロを貿易拠点として繁栄させましたが、1250年に、アイユーブ朝が大量に採用したマムルークが強大化してアイユーブ朝が滅ぼされ、マムルーク朝 (the Mamluk Sultanate) に取って代わられました。マムルーク朝の第5代スルタンのバイバルス (Baybars) は、侵攻してくるモンゴル軍や十字軍を撃退し、モンゴル侵攻から逃れてきたアッバース家の者を新しいカリフとしてカイロに擁立、メッカ・メディナの両都市を保護したほか、インド洋、地中海の制海権をおさえて香料貿易を独占しました。

Extent of the Mamluk Sultanate under Sultan an-Nasir Muhammad
マムヌーク朝 By Ro4444 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

地中海

イベリア半島から北アフリカにかけて、ベルベル人 (Berbers) が1056年にムラービト朝 (the Almoravid dynasty) を、1130年にムワッヒド朝 (the Almohad Caliphate) をそれぞれ設立、モロッコマラケシュ (Marrakesh) を都としました。イベリア半島ではキリスト教諸国がレコンキスタ (Reconquista) という国土回復運動を起こしてイスラーム社会と戦闘を繰り広げました。ムラービト朝ガーナ王国 (the Ghana Empire) を破り、サハラの南部にまでイスラーム教を広めていきました。

The Almohad empire at its greatest extent, c. 1180–1212[1][2]
ムワッヒド朝 By Omar-Toons - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

レコンキスタによりイスラーム圏の領土がどんどん減っていき、イベリア半島ではナスル朝 (the Nasrid dynasty)(グラナダ王国 the Emirate of Granada)が首都グラナダ (Granada) にアルハンブラ宮殿 (the Alhambra palace) を作るなどしてイスラーム社会を維持していましたが、1492年にスペイン王国 (the Spanish Empire) に滅ぼされました。

中国

1206年、モンゴル族テムジン (Temüjin) が周辺のモンゴル系・トルコ系の部族を統一し、クリルタイ (Kurultai) という集会で大ハン (Great Khan) の位に就き、チンギス=ハン (Genghis Khan) と称してモンゴル帝国 (the Mongol Empire) を創めました。

チンギス=ハンは西に進出、西遼 (Western Liao) を倒したトルコ系遊牧民ナイマン (Naiman) を1218年に滅ぼし、ホラズム (the Khwarazmian dynasty) を1220年に征服して、その後東の西夏 (Western Xia) を1227年に滅ぼしました。

そのあと、チンギス=ハンの跡を継いだオゴタイ=ハン (Ögedei Khan) は1234年に (Jin) を滅ぼし、カラコルム (Karakorum) を首都としました。甥のバトゥ (Batu) は西進を命じられ、南ロシアからヨーロッパに侵入し、1241年にドイツ・ポーランド連合軍をワールシュタット(リーグニッツ)の戦い (the Battle of Wahlstatt/Legnica) で破りました。

4代目のモンケ=ハン (Möngke Khan) は、弟のフビライ (Kublai) をチベット方面に遠征させて1254年に大理 (Dali) を滅ぼし、弟フラグ (Hulagu) を西アジアに派遣して1258年にアッバース朝 (the Abbasid Caliphate) を滅ぼしました。

フラグはイラン、イラク領土にイル=ハン国 (the Ilkhanate / the Il-khanate) を建国し、第7代のガザン=ハン (Ghazan Khan) の時代にはイスラーム教を国教として社会システムをイスラーム化していきました。

モンケ=ハンの死後、大ハン位についたフビライと、それに反対するオゴタイの孫ハイドゥ (Kaidu) が反乱(ハイドゥの乱)を起こし、モンゴル帝国フビライの支配する元と、それ以外のハン国とに分裂しました。

フビライは都を現在の北京にあたる大都 (Daidu) に遷し、国号を (Yuan) と定め、1279年に南宋 (Southern Song) を滅ぼして中国を統一しました。さらに元は吐蕃 (Tibet) や高麗 (Goryeo) を服属させ、ミャンマーパガン朝 (the Pagan Kingdom) を滅ぼしましたが、ベトナム陳朝 (the Trần dynasty) やチャンパー (Champa) 、ジャワ島、日本への遠征は失敗しました。

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元と他ハン国 By Los Angeles County Museum of Art - [1], Public Domain, Link

元はジャムチ (Yam) という駅伝制を採用して道路を整え、東西の交易が盛んになりました。西方からイスラームの文化や自然科学が入り、郭守敬 (Guo Shoujing) がイスラーム暦から授時暦 (Shoushi Li; Time Granting Calendar) を作成しました。また庶民文化が栄え、「琵琶記 (Tale of the Pipa)」などの元曲 (Yuanqu) が広まりました。

ヨーロッパからも人が往来するようになり、ジョヴァンニ=ダ=モンテコルヴィノ (John of Montecorvino) やプラノ=カルピニ (Giovanni da Pian del Carpine) などローマ=カトリックの伝道師などがカラコルムや大都に訪れました。泉州 (Quanzhou / Zaiton) や杭州 (Hangzhou / Khinzai) などの港町は商人が往来して栄え、ヴィネツィア商人マルコ=ポーロ (Marco Polo) は「世界の記述 (Book of the Marvels of the World)(東方見聞録)」の中で泉州を世界第一の貿易港とたたえました。

しかしフビライの死後、元は衰えを見せ、1351年に宗教結社白蓮教 (the White Lotus) を中心とする紅巾の乱 (the Red Turban Rebellion) という反乱が起こり、反乱軍の中にいた朱元璋 (Zhu Yuanzhang) が1368年、元をモンゴル高原に追いやってそれまで元朝のもとで虐げられていた漢民族の王朝である明王朝 (the Ming dynasty) を建てて、太祖洪武帝 (Hongwu Emperor) として即位し、南京 (Nanjing)(金陵)を都としました。

明王朝は皇帝独裁を強化した国家であり、朱子学国学としました。国民を民戸と軍戸とにわけ、世襲の軍戸から徴兵する制度を作り、農村も再編成、土地台帳である魚鱗図冊と租税台帳である賦役黄冊を作成して管理しました。

第2代建文帝 (Jianwen Emperor) の代の1399年、北方の燕王 (the Prince of Yan) 朱棣 (Zhu Di) が靖難の役 (the Jingnan campaign) を起こして南京を占領、首都を北京 (Beijing) に遷して第3代永楽帝 (Yongle Emperor) として即位しました。

永楽帝はモンゴルに5度出兵したほか、オイラト (Oirat)、タタール (Tatar) を討伐、ベトナムにも遠征し、さらに1405年からは宦官 (eunich) 鄭和 (Zheng He) に命じて南海遠征をさせ、東アフリカまで大艦隊を派遣しました。内政では内閣 (the Grand Secretariat) という機関を設置、内閣大学士 (the Grand Secretary) という宰相を中心に皇帝の補佐をさせました。そのほか百科事典「永楽大典 (the Yongle Encyclopedia)」を編纂しました。

明代には農業が発展し、長江中流域の湖広 (Huguang) 地方に穀倉地帯が広がりました。また江南を中心に、佃戸が小作料の減免を求めて鄧茂七の乱(1448年)などの抗租運動を起こし、佃戸の地位が向上しました。

商工業も発展し、長江下流域で綿織物や製糸の手工業が発達したほか、景徳鎮 (Jingdezhen) で作られた陶磁器 (porcelain) がヨーロッパに輸出されるなどしました。山西商人や徽州(新安)商人が全国的に活動し、同郷・同職の商工業者の相互扶助のための会館 (huiguan)、公所ができました。

文化的には、漢民族王朝の復興により中国伝統文化が復活、李時珍 (Li Shizhen) の薬物書「本草綱目 (Compendium of Materia Medica)」、徐光啓 (Xu Guangqi) の「農政全書 (Complete Treatise on Agriculture)」「崇禎暦書 (the Chongzhen calendar)」、宋応星 (Song Yingxing) の産業技術書「天光開物 (Tiangong Kaiwu)」などの実学王陽明 (Wang Yangming) の陽明学 (Yangmingism) が広がりました。また文学では「水滸伝 (Water Margin)」「西遊記 (Journey to the West)」「三国志演義 (Romance of the Three Kingdoms)」「金瓶梅 (Jin Ping Mei)」などの今日でも知られる小説(四大奇書)が生まれました。

しかし北方からはオイラトが侵入、1449年には土木の変 (the Tumu Crisis) により正統帝 (Zhengtong Emperor) が土木堡 (the Tumu Fortress) で捕虜にされ、タタールアルタン=ハン (Altan Khan) も16世紀にはたびたび侵入してきました。さらに沿岸部では日本人を中心とした倭寇 (wokou) に荒らされ、海禁 (haijin; sea ban) 政策をとって貿易を制限したり、勘合貿易を行ったりして対処しましたが、16世紀には中国人による倭寇が活発化し、その対処で国力を消耗しました。

海禁は16世紀半ばには緩められたため、日本やメキシコ産の (silver) の流入、流通が増大しました。そのためそれまでの両税法に代えて一条鞭法 (the single whip law) の税制が取り入れられました。

第14代万暦帝 (Wanli Emperor) は、張居正 (Zhang Juzheng) を登用して善政を行いましたが、その死後は宦官を重用して政治が乱れていきました。またそのころ豊臣秀吉朝鮮出兵してきたため、援軍を送るなどして軍事費が増大、国力が疲弊していきました。宮廷内では東林派 (the Donglin Society) と非東林派とが争い、やがて民衆も各地で反乱を起こし、1644年に李自成 (Li Zicheng) の反乱軍が北京を占領、崇禎帝 (Chongzhen Emperor) は自殺し明は滅亡しました。

中央アジア

中国とヨーロッパを結ぶ東西交通路 (Eurasian trade route) には大きく

  1. モンゴル高原からアルタイ山脈を経由して南ロシアに通じる草原地帯の「草原の道 (Steppe Route)」
  2. タリム盆地のオアシス都市国家を結ぶ「シルク=ロード (Silk Road)」
  3. 中国南方から東南アジアを経由し、インド洋を横断してアラビア海からペルシア湾、あるいは紅海から地中海に抜ける「海のシルク=ロード (Maritime Silk Road)」

がありました。

1のルートはトルコ系やモンゴル系民族の移動に使われました。13世紀のモンゴル帝国時代には、ローマ教皇使節プラノ=カルピニ (Giovanni da Pian del Carpine) やフランス王ルイ9世の使節ウィリアム=ルブルック (William of Rubruck) がこのルートでカラコルムを訪問しています。

2のルートは、中国北西部の河西回廊 (the Hexi Corridor) から天山山脈 (the Tian Shan Mountains)・崑崙山脈 (the Kunlun Mountains) の麓を通り、ソグディアナ (Sogdia / Sogdiana) を経由してカスピ海南岸に抜ける交易ルートです。ギリシアやペルシアの文物が伝来したり、唐代にはソグド人がラクダに乗って商業活動を行うのに使われました。 (Yuan) の時代にはマルコ=ポーロが大都を訪れました。

3のルートは、カーリミー商人とよばれたムスリム商人が三角帆のダウ船 (dhow) に乗ってアラビア海、インド洋の貿易を行ったり、中国商人がジャンク船 (junk) に乗って中国産の絹や青磁白磁の交易に使いました。そのためこの道は陶磁の道ともいいます。16世紀にはヨーロッパの商船が多数行き交い、1557年にはマカオ (Macau) にポルトガルが居住権を獲得したり、1619年にジャワ島にオランダがバタヴィア (Batavia) を建設したりして東アジア進出の足がかりにしました。

Dhow znz.jpg
ダウ船 By Muhammad Mahdi Karim - Own work, GFDL 1.2, Link

Guangzhou, Chinese Boats by Lai Afong, cа 1880.jpg
ジャンク船 By Lai Afong - caviarkirch, Public Domain, Link

東アジア・東南アジア

朝鮮半島

倭寇 (wokou) の撃退で名をあげた李成桂 (Yi Seong-gye) が高麗 (Goryeo) を滅ぼし、1392年に朝鮮王朝 (Joseon dynasty)(李氏朝鮮)を建国しました。朝鮮王朝では (Ming) の制度を取り入れて科挙 (gwageo) を導入、朱子学国学としました。

第4代世宗大王 (Sejong the Great) は、訓民正音 (Hunminjeongeum) という朝鮮文字を整備し、今日のハングル (Hangul) となりました。さらに金属活字を用いた出版を奨励し、文化事業を推進しました。

16世紀末の豊臣秀吉による1592年からの朝鮮出兵によって朝鮮国土は荒廃しましたが、李舜臣 (Yi Sun-shin) の水軍の活躍などにより日本軍を撃退しました。

東南アジア

ベトナムは、陳朝 (the Trần dynasty) が13世紀前半に成立し、 (Yuan) の侵入を3度撃退しましたが、1400年に滅亡、15世紀初めに (Ming) の永楽帝 (Yongle Emperor) に征服されました。

タイは14世紀半ばにアユタヤ朝 (the Ayutthaya Kingdom) が成立、18世紀まで存続しました。

マレーシアは、14世紀末に成立したマラッカ王国 (the Malacca Sultanate) がイスラーム商人がもたらしたイスラーム教の影響で15世紀半ばにイスラーム化し、東南アジア初のイスラーム教国となりました。

インドネシアは、ジャワ島中心にヒンドゥー教国のマジャパヒト王国 (the Majapahit Empire) が栄えていましたが、イスラーム勢力が侵入して衰退、16世紀末にジャワ島東部にイスラーム教国のマタラム王国 (the Mataram Sultanate) ができました。スマトラ北部のアチェ王国 (the Aceh Sultanate) もイスラーム商人による香料貿易によって繁栄したイスラーム国家でした。

参考