Yuki-KG’s blog

アメリカやイギリス、英語のことなど書いています。

英語で社会科〜世界史(2)〜

中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。

「英語で社会科〜世界史(1)〜」はこちらをごらんください。

Contents

ローマ

ローマ帝国

The Roman Empire in AD 117 at its greatest extent, at the time of Trajan's death (with its vassals in pink)[3][b]
By Tataryn - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

前27年にオクタウィアヌス (Octavian) がアウグストゥス (Augustus) となって帝政(元首政 Principate)を敷いてから五賢帝 (the Five Good Emperors) 時代までの約200年間がローマ帝国 (the Roman Empire) の最盛期で、ローマの平和 (Pax Romana) と呼ばれました。

ローマの属州のパレスチナ (Palestine) では、ヘブライ人がユダヤ教 (Judaism) を信仰していましたが、前4年(前7年という説もあり)ごろに生まれたエス (Jesus) が、その頃ユダヤ教を指導していた祭司やパリサイ派 (Pharisees) の律法主義を偽善的、排他的であるとして批判し、神の愛や、隣人を愛することを説きました。そのため、ユダヤ教の指導者から訴えられ、ローマ提督ポンテオ・ピラト (Pontius Pilate) はイエス磔刑 (crucifixion) に処しました。イエスの死後3日後に彼が復活したという信仰が広まり、弟子のペテロ (Peter) やパウロ (Paul) などの使徒 (apostle) が、イエス神の子 (the Son of God)、救い主キリスト (Christ) として伝道していきました。これをキリスト教 (Christianity) といい、「新約聖書 (the New Testament)」がまとめられていきました。これは「旧約聖書 (the Old Testament)」に対するもので、イエス誕生以降の事柄についてまとめたものです。

キリスト教はローマの皇帝崇拝を拒否する考えであったため、当時の皇帝ネロ (Nero) から迫害を受けましたが、下層民を中心に広まっていきました。

ローマの領土はトラヤヌス (Trajan) 時代に最大となり、ロンドンからスペイン、北アフリカメソポタミアまでが領土となりました。212年にはカラカラ (Caracalla) が領土内の全自由民にローマ市民権 (Roman citizenship) を与えました。

235年から284年にかけては軍人皇帝時代と呼ばれ、帝国各地に駐留する軍の将軍たちがそれぞれ皇帝と名乗って抗争を行いました。また領土の拡大もやみ、周辺諸国からの侵略を受けるようになりました。

最後の軍人皇帝、ディオクレティアヌス (Diocletian) は、帝国再建のため専制君主政をしき、2正帝、2副帝による四帝分治制 (the Tetrarchy) を行いました。

コンスタンティヌス (Constantine the Great) は、ネロやディオクレティアヌスの時代に迫害されていたキリスト教を313年にミラノ勅令 (the Edict of Milan) によって公認したほか、330年にはビザンティウム (Byzantium) に遷都してコンスタンティノープル (Constantinople) と改名しました。

コンスタンティヌス帝は325年に初の公会議 (eccumenical council) であるニケーア公会議 (the Council of Nicaea) を開き、そこで三位一体 (the Trinity) を主張するアタナシウス (Athanasius) の一派がキリスト教の正統とされ、イエスは人であるとするアリウス (Arius) の主張は異端とされました。392年にはテオドシウス1世 (Theodosius I) が、アタナシウス派キリスト教国教 (state religion) に指定し、他の宗教を禁じました。

395年にローマ帝国は東西に分割され、東ローマ帝国 (the Eastern Roman Empire) と西ローマ帝国 (the Western Roman Empire) に分かれました。前者は1453年まで続きましたが、後者は476年にゲルマン人オドアケル (Odoacer) に滅ぼされました。

431年、エフェソス公会議 (the Council of Ephesus) が開かれ、キリストの神性と人性を分離する主張をしたネストリウス (Nestorius) の一派が異端とされました。

ローマ時代には、ギリシア文化が帝国の隅々に広まっていき、ギリシア=ローマ文化 (the Greco-Roman culture) として栄えました。ラテン語 (Latin) やローマ字 (Latin alphabet) もこのころ広がっていきました。

文学では、ウェルギリウス (Virgil)、ホラティウス (Horace)、オウィディウス (Ovid) の三大詩人や、「国家論 (De re publica)」を著してギリシア思想をローマに広めたマルクス・トゥッリウス・キケロ (Marcus Tullius Cicero) などが活躍しました。ストア派 (Stoicism) の哲学も起こり、セネカ (Seneca)「幸福論」、マルクス=アウレリウス=アントニヌス (Marcus Aurelius Antonius)「自省録 (Meditations)」などが出ました。理性をもって感情から解放されることを目指したことから、苦痛に対して非感情的なさまをあらわす言葉の「ストイック (stoic) 」というのはこのストア派から来ています。

建築では、神殿のパンテオン (Pantheon) や円形闘技場コロッセウム (Colosseum)、最古の軍道であるアッピア街道 (the Appian Way)、そのほかガール水道橋 (Pont du Gard)、凱旋門 (Triumphal arch)、カラカラ浴場 (the Baths of Caracalla) などができました。

自然科学では、天動説 (geocentrism) を説いたクラウディオス・プトレマイオス (Claudius Ptolemy)、百科全書「博物誌 (Natural History)」を著したプリニウス (Pliny) が活躍したり、ユリウス暦 (the Julian calendar) が作られたりしました。

ビザンツ帝国

東ローマ帝国はますます栄え、首都コンスタンティノープルの旧名ビザンティウムにちなみビザンツ帝国 (the Byzantine Empire) とよばれるようになりました。

コンスタンティノープルとローマ、アンティオキア、イェルサレムアレクサンドリアの5ヶ所にキリスト教会の本山ができました。コンスタンティノープルの教会を東方教会 (the Eastern Orthodox Church) あるいはコンスタンティノープル教会とよび、その首長であるコンスタンティノープル総主教 (the Ecumenical Patriarch of Constantinople) はビザンツ皇帝 (Byzantine Emperor) が任免権をもちました。このように皇帝が教会を支配する関係のことを皇帝教皇主義といいます。それに対しローマの教会をローマ教会とよび、ローマ教皇 (Pope) が首長でした。ローマ教会のあった西ローマ帝国は476年に滅亡し、その後ローマ教会はコンスタンティノープル教会に対して劣勢でしたが、教皇グレゴリウス1世 (Pope Gregory I) が聖像 (icon) を用いてゲルマン諸族に布教し、権威を向上させていきました。

6世紀、ユスティアヌス大帝 (Justinian the Great) が地中海一帯にビザンツ帝国の最盛期を築き、周辺のヴァンダル王国 (the Vandal Kingdom) を534年に、東ゴート王国 (the Ostrogothic Kingdom) を555年に滅ぼしました。またユスティアヌス大帝は「ローマ法大全 (Corpus Juris Civilis)」の編纂やハギア=ソフィア聖堂 (Hagia Sophia) の建立を行ったり、養蚕技術の導入や絹織物産業の発展にも尽力しました。

しかしユスティアヌス大帝の死後、イタリアを失い、7世紀になると東方からササン朝イスラーム勢力が侵入、北方からスラヴ人 (Slavs) が南下、トルコ系のブルガール人 (Bulgars) がブルガリア帝国 (the Bulgarian Empire) を建国するなどして、ビザンツ帝国の領土が縮小していきました。

そのため、ビザンツ帝国の領土を軍管区に分け、その司令官に軍事上・行政上の権限を持たせて、軍管区内は屯田兵制を行い農民に土地を与えその代わりに兵役義務を課す制度を作りました。また皇帝レオン3世 (Leo III) は726年、キリスト教の聖像の製作、崇拝を禁じる聖像禁止令を発布、ローマ教会と分裂するきっかけとなりました。

7世紀には、ビザンツ帝国公用語ラテン語からギリシア語に変更し、帝国のギリシア化が進みました。

このようにして、10世紀以降、ビザンツ帝国は一時勢力を盛り返しましたが、11世紀後半にセルジューク朝 (the Seljuk dynasty) の侵入を許すことになりました。

ヨーロッパ

ゲルマン人

バルト海沿岸部 (Baltic Sea coast) にもといたゲルマン民族 (the Germanic peoples) は、先住民であるケルト (the Celtic peoples) を西に追いやりながらヨーロッパ中に勢力を拡大し、紀元ごろローマ帝国の国境に達しました。当時のゲルマン人東ゲルマン (East Germanic) と西ゲルマン (West Germanic) に分かれ、前者は東ゴート (the Ostrogoths)、西ゴート (the Visigoths)、ブルグンド (the Burgundians)、ヴァンダル (the Vandals)、ランゴバルド (the Lombards)、後者はフランク (the Franks)、アングロ=サクソン (the Anglo-Saxons) といった諸部族に分かれており、それぞれ半農半牧の生活をしていました。各部族は王や首長が統率し、民会 (ecclesia) とよばれる成年男性自由人からなる最高決定機関で意思決定されました。

4世紀後半になり、人口が増加して耕地が不足してくると、一部の者が国境をまたいでローマ帝国内に傭兵 (mercenary)、コロヌス (colonus 複数形は coloni)、下級官吏として移住するようになりました。またコーカサス地方にいたフン人 (the Huns) が西進し東ゴート人 (the Ostrogoths) の大半を制圧すると、それを機にゲルマン諸部族は大移動 (migration) を開始しました。

418年、西ゴート人はイベリア半島内に西ゴート王国 (the Visigothic Kingdom) を建国しました。429年、ヴァンダル人は北アフリカヴァンダル王国 (the Vandal Kingdom) を、443年、ブルグンド人はガリ (Gaul) 南東部にブルグンド王国 (the Kingdom of the Burgundians) を建国しました。またアングロ=サクソン人も449年に大ブリテン島にアングロ=サクソン七王国 (the Heptarchy) を建国しています。

東ゴート人を一時制圧していたフン人は、フン帝国 (the Hunnic Empire) を築いており、アッティラ (King Attila) が軍を率いていましたが451年にカタラウヌムの戦い (the Battle of the Catalaunian Fields) で西ローマ帝国西ゴート王国フランク王国の連合軍に破られ、アッティラ王の死後フン帝国は崩壊しました。西ローマ帝国はこのあと476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケル (Odoacer) によって皇帝アウグストゥルス (Augustulus) が廃位され、滅亡しました。フン人の支配から脱した東ゴート人は、テオドリック大王 (Theodoric the Great) がイタリアに移動し、493年にオドアケルの王国を倒して東ゴート王国 (the Ostrogothic Kingdom) を建国しました。

ランゴバルド人も東ゴート王国と同じ年の493年に北イタリアにランゴバルド王国 (the Kingdom of the Lombards) を建国しました。

ゲルマン人に追いやられたケルト人は、大半は彼らやローマ人と同化しましたが、一部はアイルランド (Ireland) やスコットランド (Scotland)、ウェールズ (Wales)、ブルターニュ半島などに逃れて独自の文化を今でも続けています。

フランク王国 (Francia / the Kingdom of the Franks / the Frankish Kingdom / Frankland) は、481年にメロヴィング家のクローヴィス (Clovis) がガリア北部に建国、534年にブルグンド王国を征服、774年にランゴバルド王国を滅ぼしました。8世紀になると、フランク王国宮宰(マヨル=ドムス mayor of the palace)によって支配されるようになり、カロリング家のカール=マルテル (Charles Martel) がトゥール・ポワティエ間の戦い (the Battle of Tours / the Battle of Poitiers) でイスラーム軍を撃退するなどして台頭、その子のピピン3世 (Pepin the Short) が751年、王位に就いてそれまでのメロヴィング朝 (the Merovingian dynasty) からカロリング朝 (the Carolingian dynasty) になりました。

フランク王国はクローヴィスの時代にローマ帝国の正統派であるアタナシウス派キリスト教に改宗、またピピン3世はランゴバルド王国から奪った領土の一部をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進 the Donation of Pepin)するなど、ローマ=カトリック教会との提携をはかりました。

ピピン3世の子であるカール大帝 (Charlemagne / Charles the Great) は、774年にランゴバルド王国を滅ぼし、モンゴル系遊牧民アヴァール人や後ウマイヤ朝と戦うなどして、西ヨーロッパをほぼ統一しました。カール大帝は中央集権を志向し、全国を州に分けて有力豪族をその州の長官である (count) に任命し、巡察使に監督させたほか、各地に司教を配置して教会組織を整備しました。800年のクリスマスの日には、ローマ教皇レオ3世 (Pope Leo III) からローマ皇帝帝冠を授与され (crowned) ました。

カール大帝の子ルートヴィヒ1世 (Louis the Pious) の死後、フランク王国では相続争いが起き、843年のヴェルダン条約 (the Treaty of Verdun)、870年のメルセン条約 (the Treaty of Meerssen) でフランク王国東フランク王国 (East Francia)、西フランク王国 (West Francia)、イタリア (Italy) の3つに分裂しました。

東フランク王国ではカロリング朝911年に断絶、大諸侯の選挙により選ばれた王であるオットー1世 (Otto I / Otto the Great) が北イタリアを制圧し、962年にローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受けて神聖ローマ帝国 (the Holy Roman Empire) が成立、ドイツのもとになりました。

西フランク王国ではカロリング朝は987年に断絶、パリ伯 (the Count of Paris) ユーグ=カペー (Hugh Capet) が王位に就いてカペー朝 (the Capetian dynasty) が成立、フランスのもとになりました。

イタリアではカロリング朝は875年に断絶、イスラーム勢力の侵入や神聖ローマ皇帝のイタリア政策などで混乱が続き、中部はローマ教皇 (the Papal States)、北部はヴェネツィア (Venice)、ジェノヴァ (Genoa) などの都市が独立しました。

ノルマン人

8〜10世紀にかけて、スカンディナヴィアを原住地とするゲルマン人の一種族であるノルマン人 (Normans) が、ヴァイキング船に乗ってヨーロッパ各地に進出 (the Norman Conquest) しました。

911年には、首長ロロ (Rollo) 率いる一派が北フランスに侵入、フランス王から土地を与えられそこにノルマンディー公国 (the Duchy of Normandy) を建国しました。1066年にはノルマンディー公 (the Duke of Normandy) ウィリアムがイングランド (England) を征服、征服王ウィリアム (William the Conquerer) としてイングランドノルマン朝 (the House of Normandy) を打ち立てました。またノルマンディー公国の騎士が地中海に進出、南イタリアシチリア島に1130年、シチリア王国 (the Kingdom of Sicily) を建てました。

9世紀後半、リューリク (Rurik) の一派がノヴゴロド (the Novgorod Republic) を、さらに南下してキエフ公国 (Kievan Rus') を建国しました。

ノルマン原住地には、8〜10世紀にデンマーク (Denmark)、ノルウェー (Norway)、スウェーデン (Sweden) の3王国が建国されました。

また一部はアイスランド (Iceland) やグリーンランド (Greenland) 、北アメリカへ移り住んでいきました。

このような民族大移動により、西ヨーロッパの商業は衰退し、農業中心の自給自足的な現物経済へと移行しました。各地の有力者(王・諸侯・騎士など)は城を築き、砦を作って領内の農民 (peasant) を支配、自分の所有地(荘園 manor)を守るようになりました。農民は農奴 (serf) と呼ばれる半自由民で、週に2〜3日の領主直営地 (demesne) の耕作の賦役 (corvée)、農民保有 (peasant land) の収穫の一部を領主 (lord / seigneurie) に納める貢納、それ以外に十分の一税、結婚税、死亡税といったものが課せられたり、移動の自由や農民保有地処分、職業選択の自由の制限や領主裁判権に服するといった制約が課されました。これを荘園制 (manorialism / manor system) といいます。また、主君から領地 (fief) を受ける代わりに主君に忠誠 (fealty) を誓って軍務 (military service) に服する封建制度 (feudalism / feudal system) がこの頃から広がりました。これは主君と家臣とが互いに義務を守る双務的契約であり、各領主は国王の官吏の領内立入りや課税を拒む不輸不入権を持っていたため、地方分権的で国王の権限は弱いものでした。

ローマ・カトリック教会 (the Roman Catholic Church) は、このような封建社会と一体化して、西ヨーロッパ全体に広がっていき、教皇 (pope) を頂点にピラミッド型のヒエラルキー (hierarchy)(階層的組織)を構成しました。これによって、高位聖職者が国王や諸侯からの寄進で領主になったり、領地を相続できない貴族 (nobility) が聖職者 (clergy) になったりなど、聖職者の世俗化が進んでいきました。

インド

4世紀ごろ、チャンドラグプタ1世 (Chandragupta I) がクシャーナ朝 (the Kushan Empire) を滅ぼしてグプタ朝 (the Gupta Empire) を開きました。この頃には、仏教の影響を受けた、バラモン教民間信仰とが融合したヒンドゥー教 (Hinduism) が自然発生的におこりました。ヒンドゥー教ではヴェーダの神々の代わりにシヴァ神 (Shiva deity) やヴィシュヌ神 (Vishnu deity) を崇拝し、「マヌ法典 (Manusmriti)」が信者の生活規範となります。仏教は信仰の対象ではなく研究対象としてナーランダー (Nalanda) の僧院 (sangharama) で研究者中心に教義の研究がされました。

Map of the Gupta Empire.
By Map created from DEMIS Mapserver, which are public domain. Koba-chan. Reference: [1] - This file has been extracted from another file, CC BY-SA 3.0, Link

グプタ朝は5世紀後半には国力が衰え、遊牧民エフタル (the Hephthalites) の侵攻を受けて衰退し、6世紀半ばに滅びました。ハルシャ・ヴァルダナ (Harsha Vardhana) が606年にヴァルダナ朝 (the Pushyabhuti dynasty / the Vardhana dynasty) を興し、首都をクシャーナ朝の時代と同じプルシャプラ (Purushapura) に置きました。ヒンドゥー文化の育成と仏教の保護を行いましたが、ハルシャの死後、ヴァルダナ朝は混乱に陥っていきました。

Map of the Pushyabhutis.png
By Map created from DEMIS Mapserver, which are public domain. Koba-chan. Reference: [1] - This file has been extracted from another file, CC BY-SA 3.0, Link

中東

570年ごろ、メッカ (Mecca) の名門クライシュ族 (Quraysh) に生まれたムハンマド (Muhammad) は、610年ごろに唯一神アッラー (Allah) の啓示を受け、預言者 (prophet) としてイスラーム (Islam) を創始しました。その信者はムスリム (Muslim) と呼ばれ、アッラーへの絶対帰依や、アッラーの前に人はみな平等であること、さらにアッラー天使 (angel)、コーランクルアーン (Quran)、預言者来世 (resurrection and judgment)、天命 (divine predestination) の六つを信じ(六信)、信仰告白 (testimony)、礼拝 (prayer)、喜捨 (charity)、断食 (fasting)、巡礼 (pilgrimage) の五行を実践することが課せられています。

ムハンマドとその信者は、メッカの商人らに迫害されたため、622年、メッカの北にあるメディナ (Medina) に移りました。これを聖遷 (ヒジュラ Hijra / Hijrah) といいます。

630年、ムハンマドはメッカを征服、アラビア半島の大半を統一したあと、シリア (Syria) に遠征しようとしましたが、その直前の632年に病死しました。ムハンマドの死後、後継者(カリフ Caliph)が有力な信徒から選ばれるようになり、その指導のもと、ムスリムたちはジハード (jihad) と呼ばれる聖戦を繰り広げて周辺を征服していき、イスラーム社会を広げていきました。その頃この辺りを支配していたのはササン朝 (the Sassanid Empire) でしたが、642年のニハーヴァンドの戦い (the Battle of Nahavand) で破られました。

第4代カリフのアリー (Ali) が暗殺されると、既に征服していたシリアの総督であったムアーウィア (Mu'awiyah) がカリフとなり、ダマスクス (Damascus) を首都としてウマイヤ朝 (the Umayyad dynasty) を打ち立てました。それ以降、カリフはその子孫が世襲するようになりました。その後もイスラーム世界は拡大を続け、インダス川からアフリカ、イベリア半島に至るまでの大勢力圏を築き上げました。

イスラーム世界では、アラブ人は特権を持っていましたが、非アラブ人は地租(ハラージュ kharaj)や人頭税ジズヤ jizya)を負担しなければならず、これが「コーラン」の説く「アッラーの前の平等」に反すると考えた非アラブ人ムスリムであるマワーリー (mawali) や、アリーの子孫のみをカリフと認めるシーア派 (Shi'a) の信徒らを中心に不満が高まってきました。彼らが、ムハンマドの叔父の子孫のアッバース家による革命 (the Abbasid revolution) に協力して、ウマイヤ朝は750年に打倒され、アッバース朝 (the Abbasid dynasty) が成立しました。

アッバース朝では、イラン人を官僚に登用し、シャリーア (Sharia) というイスラーム法に基づいた政治と中央集権化を推進しました。アラブ人と非アラブ人の格差をなくし、人頭税を廃止、地租はアラブ人にも課せられるようになりました。

第2代カリフのマンスール (Al-Mansur) がティグリス川 (the Tigris River) 西岸に新都市バグダード (Baghdad) を建設し、そこを首都としました。バグダード (Tang) の長安 (Chang'an) と並ぶ国際都市として発展していきました。

打ち破られたウマイヤ朝イベリア半島に逃れ、756年から後ウマイヤ朝 (the Emirate of Córdoba) を打ち立てました。また909年にはチュニジアファティーマ朝 (the Fatimid dynasty) ができました。また932年にはカスピ海南部にシーア派の軍事政権ブワイフ朝 (the Buyid dynasty / the Buwayhid dynasty) が生まれ、イスラーム世界は3カリフが並立する状態となりました。

中国

漢王朝 (the Han dynasty) は8年に王莽 (Wang Mang) によって一旦滅ぼされ、 (Xin) という王朝が建てられました。しかし新は周の政治を目指して復古政策をとったため反発が広がり、18年の赤眉 (the Red Eyebrows) の乱をきっかけに各地で反乱が起こり、25年に滅びました。このとき新を滅ぼしたのが漢の王室の子孫と称した劉秀 (Liu Xiu) で、都を長安 (Chang'an) から洛陽 (Luoyang) に遷して光武帝 (Emperor Guangwu) と名乗り、後漢 (Later Han) が始まりました。

後漢ははじめの100年ほどは安定していましたが、2世紀に入るときしみが見え始め、宮廷内で豪族たちによる権力闘争や宦官 (eunich) による専横が始まりました。166年と169年にそれに抗議した勢力がありましたが、彼らは弾圧されました(党錮の禁 the Partisan Prohibitions)。184年には、張角 (Zhang Jue) が創始した道教の秘密結社が、腐敗した政治の中で発生した貧農たちを組織して黄巾の乱 (the Yellow Turban Rebellion) を起こし、それをきっかけに各地で豪族が群雄割拠することとなりました。

Three Kingdoms timelapse.gif
By Three Kingdoms fan - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

その中で最も力を持ったのが曹操 (Cao Cao) で、その子の曹丕 (Cao Pi) が220年に後漢の皇帝に位を譲らせ、 (Wei) を建国して後漢を滅ぼしました。

その後、中国は

  • 成都 (Chengdu) を都とした劉備 (Liu Bei) が建国した (Shu)
  • 建業 (Jiangye) を都とした孫権 (Sun Quan) が建国した (Wu)

を合わせた三国時代 (the Three Kingdoms era) となりました。蜀は諸葛亮 (Zhuge Liang) などの有能な軍師がいましたが、263年に魏に滅ぼされました。その魏も曹丕が部下の司馬炎 (Sima Yan) に帝位を奪われ、司馬炎武帝 (Emperor Wu) を名乗って洛陽を都に (Jin) を建国、280年に呉を滅ぼして中国を統一しました。

官吏登用法として魏代から九品中正制 (the nine-rank system) という制度があり、人材を9等級に分けて各地の中正官 (controller) に推薦させる方式をとっていましたが、これにより有力豪族が有利となり、晋代になると門閥政治 (menfa politics) が幅を利かせるようになりました。これによって、武帝の死後、晋の内部で八王の乱 (the War of the Eight Princes) という権力争いが起こり、その混乱に乗じて匈奴 (Xiongnu) が洛陽を占領、永嘉の乱 (the Disaster of Yongjia) が起こり晋が一時滅びましたが、司馬睿 (Sima Rui) が建康 (Jiankang)(かつての建業、現在の南京)を中心に再度晋王朝を復興、これ以前の晋王朝西晋 (Western Jin)、以降を東晋 (Eastern Jin) と呼ぶことになります。

永嘉の乱以降、周辺の異民族である匈奴 (Jie)、鮮卑 (Xianbei)、チベット族 (Di)、 (Qiang) の五胡 (the Five Barbarians) は一斉にそれぞれ政権を樹立し、十六国時代 (the Sixteen Kingdoms era) と呼ばれるようになりました。

十六国時代になると、漢代に西域から伝えられていた大乗仏教 (Mahayana) が一般に広まり、竺法護 (Dharmaraksa) や鳩摩羅什 (Kumarajiva) による仏典漢訳がなされたり、東晋時代には1768寺の仏教寺院が建立されました。また道教 (Taoism) もこの頃成立しました。

420年、江南では東晋の武将劉裕 (Liu Yu) が東晋を倒し (Song) を建国しました。華北では鮮卑拓跋氏 (Tuoba) の建てた北魏 (Northern Wei) が華北を統一し、南北に王朝が並立する南北朝時代 (the Northern and Southern dynasties) となりました。

北朝は、北魏孝文帝 (Emperor Huan Wen) の時代に服装や言語を中国化する漢化政策を実施しました。485年には土地を国有化して農民に等しく分け与える均田制 (the equal-field system) を定め、三長制という村落制度も設けられました。

北魏はこの漢化政策をめぐる対立から、6世紀前半に東西に分裂、東のほうは北斉 (Northern Qi)、西のほうは北周 (Northern Zhou) に変わり、北斉北周に併合されました。南朝は宋から (Qi)、 (Liang)、 (Chen) へと興亡しましたが、貴族や地方豪族がそれぞれ力を持ち、統一しませんでした。

581年、北周外戚である楊堅 (Yang Jian) が (Sui) を建国し、文帝 (Emperor Wen) と名乗りました。589年には南朝の陳を滅ぼし、中国を統一しました。

文帝は、中央集権体制を作るため、北魏時代の均田制を取り入れました。軍事は北周時代の府兵制 (fubing system) を採用しました。税制は租庸調 (Zu Yong Diao) の制度を作り、 (grain tax)、 (labor service)、調 (textile tax) の形式で徴税する方式を確立しました。また役人の登用には九品中正を廃止し科挙 (keju) 制度を定めました。これは学力試験によって役人の採否を決める制度で、身分によらず公正に登用できるということでこの後の中国に広く用いられました。

文帝のあとを継いだ煬帝 (Emperor Yan) は、華北と江南を結ぶ大運河 (Grand Canal) の建設を行い、民衆に過大な負担を強いたこと、高句麗遠征 (the military campaigns against Goguryeo) に失敗したことなどから、各地で反乱が起こり、618年に隋はわずか30年足らずの歴史に終止符を打ちました。

The empire during the reign of Wu Zetian (c. 700)
By Ian Kiu - Tang Dynasty 700 AD from "The T'ang Dynasty, 618-906 A.D.-Boundaries of 700 A.D." Albert Herrmann (1935). History and Commercial Atlas of China. Harvard University Press., CC BY-SA 3.0, Link

隋を滅ぼした李淵 (Li Yuan) は (Tang) を建国し、高祖 (Emperor Gaozu) と名乗りました。二代目の李世民 (Li Shimin) は太宗 (Emperor Taizong) と名乗り、国内統一を完成させ、モンゴルの突厥 (the Eastern Turkic Khaganate) を服属させるなどして、唐は最盛期を迎えました。この頃の政治を貞観の治 (the Reign of Zhenguan) といいます。三代目の高宗 (Emperor Gaozong) の代には朝鮮半島百済 (Baekje) と高句麗 (Goguryeo) を滅ぼし、平壌 (Pyongyang) に安東都護府 (the Protectorate General to Pacify the East) を設置すると共に、中央アジア西突厥 (the Western Turkic Khaganate) を平定し、朝鮮半島から西域オアシス地方まで領土に収める大帝国を築きあげました。

内政では、隋代の律令 (legal code) を改定し、653年に唐律疏議 (the Tang Code) を成立させました。この500条に及ぶ法典は東アジアの律令の見本としてベトナム朝鮮半島、日本などに影響を与えました。政府は3つの (department) と6つの (ministry) の三省六部 (Three Departments and Six Ministries) に分かれ、人事、財務、祭祀、軍事、司法、公共事業などの行政を担当しました。この制度は20世紀の清朝滅亡まで続きました。租庸調制、均田制、科挙制度は隋代のものが継承されました。また府兵制も継続され、農民兵が首都と所領を交互に行き来する制度が行われました。

A Tang Dynasty Empress Wu Zetian.JPG
則天武后
By Unknown author - Image taken from An 18th century album of portraits of 86 emperors of China, with Chinese historical notes. Originally published/produced in China, 18th century. (British Library, Shelfmark Or. 2231), Public Domain, Link

690年に高宗が死去すると、皇后であった武則天 (Wu Zetian) がその子であった中宗 (Zhongzong) と睿宗 (Ruizong) を廃し、自らが則天武后として中国唯一の女帝 (empress regnant) となり、国号を (Zhou) と改めました。則天武后の死後、復位した中宗は710年に皇后の韋后 (Empress Wei) に毒殺され、韋后が政権を掌握しようとしましたが、睿宗の息子である李隆基 (Li Longji) がこれを倒し、玄宗皇帝 (Emperor Xuanzong) となりました。

Tang XianZong.jpg
玄宗皇帝
By User Zhuwq on zh.wikipedia - Unknown source, Public Domain, Link

Yang Guifei by Uemura Shoen (Shohaku Art Museum).jpg
楊貴妃
By Uemura Shōen (1875-1949) - https://www.google.com/culturalinstitute/asset-viewer/yangguifei/AgFyBVePWGCm9g?projectId=art-project, Public Domain, Link

玄宗の時代には、開元の治 (the Reign of Kaiyuan) を行って唐は最も繁栄し、都の長安 (Chang'an) には世界中から人が行き来するようになりました。このころ詩人の李白 (Li Bai) や杜甫 (Du Fu) が活躍し、僧の玄奘 (Xuanzang) が経典をもたらすなど仏教も盛んになりましたが、晩年には皇后である楊貴妃 (Yang Guifei) を溺愛するようになり、政治が乱れ始めてきました。そのため皇帝に対する不満が高まり、755年、ソグド人とチュルク人のハーフ (half-Sogdian, half-Turk) である安禄山 (An Lushan) が乱を起こしました(安史の乱 the An-Shi Rebellion)。乱自体は鎮圧されましたが、ウイグル族の援軍を必要としており、唐自体の無力さが露呈してきました。唐は710年ごろから異民族侵入を防ぐため節度使 (jiedushi) という地方の武将を周辺の地域に置いていましたが、この節度使が勝手に軍事権や徴税権などの自治権を主張し、また地位の世襲まで中央政府に認めさせ、科挙で選ばれた文官からその地位を奪うなど、中央の手に負えなくなってきました。また均田制も形骸化し、人々が自由に土地を売り買いできるようになりました。

An Lu Shan.jpeg
安禄山 By Unknown author - w:ja:File:An Lu Shan.jpeg, Public Domain, Link

780年までには租と庸が両税法に置き換わり、資産に応じて半年ごとに現金で納税させる方式になっていきました。また政府による塩の専売制も始まりました。

これらの改革により唐は一時的に勢いを盛り返しましたが、874年に塩の密売商人黄巣 (Huang Chao) が起こした黄巣の乱 (the Huang Chao Rebellion) によって完全に弱体化しました。黄巣の乱節度使李克用 (Li Keyong) と黄巣の部下であった朱文 (Zhu Wen) の協力により鎮圧されましたが、朱文は朱全忠 (Zhu Quanzhong) と改名し、唐に敵対するようになりました。朱全忠は本拠地の開封 (Kaifeng) から長安に入り、904年に唐の昭宗 (Zhaozong) を暗殺、その子であった幼い哀帝 (Emperor Ai) を皇帝に据えました。905年には朱全忠哀帝の兄弟や何皇太后を殺し、多くの官吏も処刑しました。907年、朱全忠哀帝を廃位し、自ら帝位について後梁 (Later Liang) を建国し、唐は滅亡しました。哀帝はその1年後、毒殺されました。

李克用は908年に死去しましたが、その子の李存勗 (Li Cunxu) が923年に後唐 (Later Tang) を建国し、後梁を倒しました。このあとは

という短命王朝が興亡し、また周辺地域でも

  • 楊呉 (Yang Wu)
  • 呉越 (Wuyue)
  • (Min)
  • 南漢 (Southern Han)
  • 馬楚 (Ma Chu)
  • 北漢 (Northern Han)
  • 荊南 (Jingnan)
  • 前蜀 (Former Shu)
  • 後蜀 (Later Shu)
  • 南唐 (Southern Tang)

といった小王国が興亡して、五代十国 (Five Dynasties and Ten Kingdoms) と呼ばれるようになりました。これらのほとんどは節度使が建国し、武断政治が行われたため、従来の貴族階級は没落していき、新しい地主層が新しい支配層になっていきました。

960年、後周の将軍趙匡胤 (Zhao Kuangyin) が首都開封 (Kaifeng) に (Song) を建国し、太祖となりました。宋はこれまでの武断政治を排し、文官が統治する文治主義を採用しました。皇帝直属の禁軍 (Imperial army) を強化し、節度使の権限を大幅に削減していきました。また科挙 (keju) を復活させ、皇帝自身が試験官となる殿試を最終試験に追加しました。

しかし節度使の弱体化により周辺民族の侵入に対して脆弱になりました。特に次のような周辺国には宋は和平策をもって懐柔することもありました。

  • (Liao):モンゴル系契丹 (Khitan) の耶律阿保機 (Yelü Abaoji) により916年建国。漢字とウイグル文字をもとにした契丹文字 (Khitan scripts) を持つ。1004年、宋と澶淵の盟 (the Chanyuan Treaty) を結び、毎年多額の歳賜を宋から受ける。
  • 西夏 (Western Xia):チベットタングート (Tangut) の李元昊 (Li Yuanhao) により1038年建国。仏教が盛んで漢字の影響を受けた西夏文字 (Tangut script) をもつ。宋とは1044年に慶暦の和約を結び、毎年多額の歳賜(絹・銀・茶)と東西交易の利権を宋から受ける。
  • (Jin):遼に支配されていたツングース女真 (Jurchen) の完顔阿骨打 (Wanyan Aguda) により1115年独立。

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契丹文字
By John S Y Lee - Khitan script 契丹字, CC BY-SA 2.0, Link

Bushell's 1896 decipherment of Tangut characters.jpg
西夏文字
By BabelStone - Scanned from the "Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society" Vol.XXX (1895-1896), Public Domain, Link

第6代皇帝神宗 (Shenzong) の時代に、宰相 (Chancellor) の王安石 (Wang Anshi) は新法を実施し、財政再建と富国強兵を目指しましたが、保守派の官僚がこれに反対、改革派と守旧派とで激しく争って宋の国力が次第に衰退していきました。このあおりで詩人の蘇軾 (Su Shi) が王安石を批判したかどで投獄されたりしています。

1125年、金は宋と同盟して遼を滅ぼしましたが、そのあと同盟を破棄して宋を攻撃するようになり、靖康事変 (the Jinkang Incident) によって開封を陥落させて皇帝の欽宗 (Qinzong) と上皇徽宗 (Huizong) らを連行しました。欽宗の弟の高宗 (Gaozong) は臨安(杭州)に逃れ、淮河 (the Huai River) 以南に宋王朝を再興しました。これ以後の宋王朝南宋 (Southern Song)、これ以前のものを北宋 (Northern Song) といいます。南宋では、秦権ら和平派が主戦派の岳飛らを抑え、金に臣下の礼を取り歳貢を贈ることを約した紹興の和議を結びました。

金は独自の女真文字 (Jurchen script) を作成し、華北を支配しましたが、1234年にモンゴル帝国に滅ぼされました。

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女真文字
By 方于魯 (Fāng Yúlǔ), reproduced by Stephen Wootton Bushell (1844-1908) - scanned from Stephen Wootton Bushell (1844-1908), "Inscriptions in the Juchen and Allied Scripts", "Actes du Onzième Congrès International des Orientalistes" (1897) 2nd section page 21, Public Domain, Link

朝鮮半島

Goguryeo in 476 AD
By Myself - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

紀元前後にツングース系の貊族 (the Maek tribe) の一派が中国東北地方南部に高句麗 (Goguryeo) を建国しました。高句麗は313年に楽浪郡 (the Lelang Commandery) を滅ぼし、朝鮮半島北部へ進出しました。4世紀になると、広開土王 (King Gwanggaeto)(好太王 King Hotae)とその次の長寿王 (King Jangsu) のもとで領土を拡大し、平壌 (Pyongyang) に都を移しました。

朝鮮半島南部では、南西部の馬韓 (Mahan)、南東部の辰韓 (Jinhan)、その間の弁韓 (Byeonhan) の3つの領域で3世紀ごろ小国の連合がありました。これらを合わせて三韓 (Samhan; Three Kingdoms of Korea) といいます。4世紀になると馬韓百済 (Baekje)、辰韓新羅 (Silla) ができ、弁韓には小国連合の伽耶 (Gaya) (あるいは加羅任那)があり、また済州島には耽羅 (Tamna) がありましたが、伽耶は562年に新羅に滅ぼされました。

百済は538年に聖王 (King Seong) が都を泗沘 (Sabi) に置き、仏教が盛んになりました。

新羅は6世紀前半の法興王 (King Beopheung) の時代に仏教を新羅の国教とし国として栄えていきました。その次の真興王 (King Jinheung) は軍備を強め、当時同盟を結んでいた百済と共に高句麗を漢江地域から追い出したあと、553年には百済との同盟関係も解消して独自路線を歩み、花郎 (Hwarang) 制度を作りました。

高句麗は隋代から攻められては守り切っていましたが、唐になってからさらにその脅威が強くなってきました。642年に大貴族である淵蓋蘇文 (Yeon Gaesomun) がクーデターを起こして栄留王 (King Yeongnyu) を殺害し、自らは大将軍となって権力を握りました。

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淵蓋蘇文
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百済と同盟を結んでいた高句麗に対抗するため、新羅善徳女王 (Queen Seondeok) は643年、唐に軍事援助を要請しました。唐の太宗皇帝は個人的な野望から高句麗に自ら出陣して侵略を指揮しましたが、649年の夏に病気にかかり死去しました。太宗の皇子の高宗はさらに朝鮮出兵を継続しましたが、善徳女王の甥の金春秋 (Gim/Kim Chunchu) は、まず百済を征服して高句麗百済連合 (the Goguryeo–Baekje alliance) を崩壊させ、そのあと高句麗を全面的に攻めることを提案し、武烈王 (King Muyeol) となったあとの660年、唐・新羅連合 (the Silla-Tang Alliance) をもって百済の征服に取り掛かりました。

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善徳女王
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百済は将軍の階伯 (Gyebaek) が連合軍と戦いましたが、黄山伐の戦い (the Battle of Hwangsanbeol) に敗れ戦死、程なく首都の泗沘も陥落し、百済は滅亡しました。百済義慈王 (King Uija) と王子の扶餘隆 (Buyeo Yung) は中国に逃れ、支配階層の一部は日本に逃れました。僧の道琛 (Dochim) と将軍の鬼室福信 (Gwisil Boksin) は百済復興を期して、日本にいた扶餘豊 (Buyeo Pung) を王として迎え、周留 (Juryu) に拠点を置いて唐の将軍劉仁願 (Liu Renyuan) を泗沘で包囲するなど抵抗しました。また日本にも援軍を要請し、663年に日本の水軍とともに百済南部の白村江 (Baekgang) に集結して連合軍と対峙しましたが、白村江の戦い (the Battle of Baekgang) の結果、連合軍が勝利し、敗れた扶餘豊は高句麗に逃亡しました。

Portrait of Kim Yushin in the famous portrait photo book of Joseon.jpg
金庾信
By Unknown author - 조선명화사진첩(朝鮮名賢肖像畵寫眞帖), Public Domain, Link

武烈王はさらに高句麗の平定に向けて妃の兄である将軍・金庾信 (Gim/Kim Yu-sin) らに攻めさせましたが、淵蓋蘇文を破ることはできませんでした。666年に淵蓋蘇文が死去すると、高句麗は後継争いが起こって弱体化し、668年に唐・新羅連合に滅ぼされました。高句麗の遺民ともいわれる大祚栄 (Dae Joyeong) は落ち延びた遺民らを率いて698年に中国東北部渤海 (Balhae) を建国しました。

新羅は676年、平壌安東都護府 (Protectorate General to Pacify the East) を遼東方面に撤退させ、三韓統一を実現させました。

新羅は唐の律令体制や仏教文化を受け入れて栄えました。新羅の特徴的な身分制度として骨品制 (bone-rank system) があります。これは人の血統の尊さ(骨)に応じて品位を分ける制度で、王族のうち父母ともに王族のものを聖骨 (seonggol; sacred bone)、そうでない王族を真骨 (jingol; true bone)、他の氏族を六頭品、五頭品、四頭品という頭品 (head rank) と区別して就職、結婚、住居などを制限したものでした。このような氏族的身分制度が社会の発展を停滞させていき、918年に王建 (Wang Geon) によって半島中部の開城 (Kaesong) に起こった高麗 (Goryeo) によって新羅は935年に滅ぼされました。

王建は高麗の太祖 (Taejo) となり、以降36代続きましたが、1392年に李成桂 (Yi Seong-gye) に滅ぼされ、朝鮮国 (Joseon) となりました。この時代の朝鮮国のことを李氏朝鮮といい、1910年まで続きました。

東南アジア

ベトナム北部は、秦や前漢の時代までは中国に支配されており、唐の時代にも安南都護府 (Annan Protectorate) が置かれていましたが、11世紀初めに李朝 (the Lý dynasty) の大越国 (Great Viet Kingdom) がハノイを都に成立しました。しかし13世紀後半に外戚陳氏 (the Trần clan) に国を奪われ、陳朝 (the Trần dynasty) の大越国となりました。仏教が栄え、漢字をもとにしたチュノム (Chữ Nôm) というベトナム独自の文字も作られました。

ベトナム中部では、2世紀ごろにチャム人 (Chams) がチャンパー (Champa) という国を建国し、海上交易の中継国として17世紀まで続きました。

カンボジアでは、1世紀末に東南アジア最古の国、扶南 (Funan) がメコン川 (the Mekong River) 下流域に建国され、ローマ帝国などとの交易のあとも発見されています。6世紀にはメコン川中流域にクメール人 (the Khmer people) の国、真臘 (Chenla) が興り、扶南を滅ぼしました。そのあと一時分裂を経て9世紀初めにはアンコール朝 (Angkor) として統一されました。ヒンドゥー文化の影響を受けており、9世紀末に都城アンコール=トム (Angkor Thom)、12世紀には寺院アンコール=ワット (Angkor Wat) が建造されて栄えましたが、14世紀後半にタイのアユタヤ朝 (the Ayuttaya Kingdom) の侵入を受け、衰退しました。

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アンコール=トム By Baldiri - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

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アンコール=ワット By Kheng Vungvuthy - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

タイでは、7世紀ごろにモン人 (the Mon people) の国ドヴァーラヴァティー王国 (the Dvaravati Kingdom) がチャオプラヤ川 (the Chao Phraya River) 下流域に成立、上座部仏教 (Theravada) を受け入れて繁栄しました。13世紀半ばには雲南にいたタイ人がモンゴルの侵入を機に南下、チャオプラヤ川中流域にタイ人の国スコータイ朝 (the Sukhothai Kingdom) を建国、上座部仏教を保護し、タイ文字 (Thai script) を作って栄えましたが、そのあと興ったアユタヤ朝に併合されました。

イラワディ川 (the Irrawaddy River) 下流域には、8世紀ごろ (Pyu) が建国されましたが、南詔 (Nanzhao) の攻撃を受けて衰退し、11世紀にパガン朝 (the Pagan Kingdom) が成立、ビルマのもととなりました。上座部仏教が栄えビルマ文字 (Burmese alphabet) ができましたが、 (Yuan) に攻められ13世紀末に滅亡しました。

スマトラ島パレンバン (Palembang) には7世紀半ばにシュリーヴィジャヤ (Srivijaya) 王国が成立、大乗仏教 (Mahayana) が栄え、マラッカ海峡を中心に海上交易で発展しました。ジャワ島中部には、8〜9世紀ごろシャイレンドラ朝 (the Shailendra dynasty) があり、大乗仏教が栄えました。ボロブドゥール (Borobudur) という仏教遺跡が有名です。

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ボロブドゥール By Gunawan Kartapranata - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

中央アジア

タクラマカン砂漠 (the Taklamakan Desert) の広がるタリム盆地 (the Tarim Basin) のオアシス地帯には、敦煌 (Dunhuang)、亀茲クチャ Kucha)、于闐ホータン Hotan)などのオアシス都市が点在し、中国からこれらの都市を通って西に向かう商業ルートであるシルクロード (Silk Road) とともに交通の要衝として発展しました。

モンゴル系の匈奴 (Xiongnu) は前1世紀ごろ東西に分裂、西匈奴は滅亡し、東匈奴は48年に南北に分裂しました。北匈奴 (Northern Xiongnu) は後漢 (Later Han) に攻められ西へ逃れ、その子孫がフン人となったと言われています。南匈奴 (Southern Xiongnu) は後漢に服属して長城の南に移住、のちに五胡 (Five Barbarians) の1つとなり、永嘉の乱 (the Disaster of Yongjia) で西晋 (Western Jin) を滅ぼしました。

匈奴にかわってモンゴル高原では鮮卑 (Xianbei) が入り込み、3世紀に南下を始め、五胡十六国時代 (the Sixteen Kingdoms period) の386年、北魏 (Northern Wei) を建国、5世紀前半に華北地方を統一しました。鮮卑が南下したあと、5〜6世紀にモンゴル高原を支配したのは柔然 (the Rouran Khaganate) という国ですが、6世紀に半ばにトルコ系の突厥 (Göktürks) に滅ぼされ、突厥モンゴル高原を新たに支配しました。突厥ササン朝 (the Sassanid Empire) と組んで中央アジア遊牧民エフタル (Hephthalites) を滅ぼし、モンゴルからトルコまでの広大な地域を支配しました。突厥文字 (Old Turkic script) はこのあたりの遊牧民の最古の文字とされています。

突厥は6世紀末に東西に分裂、突厥 (the Eastern Turkic Khaganate) は唐に服属、8世紀半ばにトルコ系のウイグル (the Uyghur Khaganate) に滅ぼされました。西突厥 (the Western Turkic Khaganate) もやがて衰退していきました。

突厥を滅ぼしたウイグルは、安史の乱 (the An-Shi Rebellion) で唐に協力したり、吐蕃 (the Tibetan Empire) を征討したりするなどして力を見せ、イラン系ソグド人 (Sogd) と協力してオアシス都市に移住、ウイグル文字 (Uyghur alphabets) を作り、マニ教 (Manichaeism) を受け入れ、トルキスタン (Turkestan / Turkistan) と呼ばれて繁栄しました。8世紀以降になるとイラン系イスラーム勢力がトルキスタンに侵入、9世紀には西トルキスタンサーマーン朝 (the Samanid Empire) が建国され、トルコ系民族のイスラーム化が進みました。トルコ系のイスラーム王朝であるカラ=ハン朝 (the Kara-Khanid Khanate) は10世紀半ばに興り、999年にサーマーン朝を倒してトルキスタンイスラーム化しました。

アメリ

メキシコ湾周辺に前1200〜前300年ごろにオルメカ文明 (Olmecs) があったといわれています。そして前2世紀ごろにはメキシコ高原にテオティワカン (Teotihuacan) 文明が生まれて800年ほど続き、続いて6〜10世紀ごろトルテカ文明 (the Toltec culture) があったとされています。またトルテカ文明と同じころにユカタン半島 (the Yucatán Peninsula) にマヤ文明 (Maya civilization) が存在し、神官が権力を持って学問を発展させ、ゼロの概念、二十進法 (vigesimal system)、マヤ文字 (Maya script)、天文学太陽暦 (solar calendar) などの独自の文化があったとされます。

アンデス高地では、前1000年ごろチャビン文化 (the Chavín culture) が生まれ、その他いろいろな地方文化があったとされます。

12世紀ごろになると、アステカ族 (Aztecs) がメキシコ高原にやってきて、14世紀にテノチティトラン (Tenochititlan) を都にアステカ王国 (the Aztec Empire) を建国、アステカ文明 (the Aztec civilization) と呼ばれる精巧な建物、アステカ文字 (Aztec script) 、太陽暦が用いられていました。アステカ王国も神官による神権政治が行われていました。

また1200年ごろ、アンデス山中のクスコ (Cusco) ではケチュア族 (the Quechua people) によるインカ帝国 (the Inca Empire) が興り、15世紀から急速に領土を拡大して、アンデス山脈に沿った南北2000キロの大領土を持つようになりました。太陽神 (Sun God) 崇拝があり、皇帝は太陽の化身とされました。文字は持ちませんでしたが、キープ(結縄) (Quipu) という、縄の結び方で数量や意味を表す方法があったとされます。

80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.2.jpg
クスコ(マチュピチュ
By Martin St-Amant (S23678) - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

Inca. Quipu.jpg
キープ By Unknown maker - Brooklyn Museum, No restrictions, Link

1492年にクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus) が新大陸を発見すると、スペイン、ポルトガルを中心に征服活動が始まりました。スペインの征服者(コンキスタドール conquistador)の代表的人物であるエルナン・コルテス (Hernán Cortés) は、1521年にテノチティトランを占領し、アステカ王国を滅ぼしました。フランシスコ・ピサロ (Francisco Pizarro) は1533年にインカ帝国を侵略、クスコを占領して皇帝アタワルパ (Atahualpa) を捕らえ、インカ帝国を滅ぼしました。

Luis Montero - The Funerals of Inca Atahualpa - Google Art Project.jpg

アタワルパの処刑
By Luis Montero (Piura, 1826 - Callao, 1869) – painter (Peruvian) Born in Piura. Died in Callao. Google Art Projectでのアーティストの詳細 - LgEg2gaAx_wK1w at Google Cultural Institute maximum zoom level, Public Domain, Link

 

「英語で社会科〜世界史(3)〜」に続きます。

参考