Yuki-KG’s blog

アメリカやイギリス、英語のことなど書いています。

英語で社会科〜日本史(1)〜

中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。

今回は日本史編です。地理編と世界史編はこちらをご覧ください。

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縄文時代 (Jomon period)

前14000〜前300年ほどの期間をいいます。縄文式土器 (Jomon pottery) が使われていました。

弥生時代 (Yayoi period)

前300〜300年ほどの期間をいいます。東京・文京区の弥生で弥生式土器 (Yayoi pottery) が発掘されたことからこのように名付けられました。

稲作が広まり、それにつれて小さな集落が生まれて村になり、貧富や身分の差が生まれ、実力者が村を率いるようになって、その村々が合従連衡を経て国となり、国がさらに戦争や話し合いなどでまとまって大きくなっていきました。

3世紀の学者、陳寿 (Chen Shou) が編纂した『三国志 (Records of the Three Kingdoms)』の「魏志 (Wei Zhi)」に、(Wo) のことが書かれているのが日本についての初めての記録です。また范曄 (Fan Ye) が5世紀に記した「後漢書 (Book of the Later Han)」によると、倭の奴国 (Na state) の王が後漢 (Later Han dynasty) の光武帝 (Emperor Guangwu) から「漢委奴國王 (King of Na of Wo in Han Dunasty)」の金印 (golden seal) を賜ったと記されています。

King of Na gold seal faces.jpg
By PHGCOM - Own work by uploader, Toi Museum replica, CC BY-SA 3.0, Link

魏志」によれば、3世紀に邪馬台国があり、卑弥呼という女王が治めていたこと、卑弥呼の弟が (Wei) との外交を担当していたこと、魏から出自を問われた倭の人々は、 (Wu) の歴史的人物である太保 (Taibo) の子孫であると主張したことなどが記されています。

飛鳥時代 (Asuka period)

6世紀ごろ、奈良の飛鳥の地に大王家 (Imperial family) のまわりに蘇我氏 (Soga clan)、物部氏 (Mononobe clan) などの有力豪族が乱立していました。

仏教 (Buddhism) は百済 (Baekje) の聖王 (King Seong) によって日本に伝えられたとされ、531年に欽明天皇 (Emperor Kinmei) の即位とともに台頭した蘇我氏は、仏教と中国の儒教 (Confucianism) に基づく政治・文化モデルの導入を推し進めました。しかし、大和朝廷 (Yamato court) の神祇官である中臣氏や武家物部氏などは、自分たちの権勢を維持することに固執し、仏教という異質な宗教の影響に抵抗したため、1世紀にわたって両者の対立が続きました。

飛鳥大仏(飛鳥寺
Asuka dera daibutsu.jpg
By Chris 73 / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, Link

蘇我氏 (chieftain) の蘇我馬子は、物部氏を倒し、崇峻天皇 (Emperor Sushun) を暗殺して、自分の姪を女性天皇 (empress regnant) に推戴し、彼女を推古天皇 (Empress Suiko) にしました。その際に摂政 (regent) となった聖徳太子 (Prince Shotoku) は、十七条憲法 (Seventeen-article constitution) を作ったり遣隋使 (Japanese mission to Sui) を送ったりしましたが、聖徳太子の死後、蘇我氏が権力を独占しようとしたため、中大兄皇子 (Prince Naka no Oe) と中臣鎌足 (Nakatomi no Kamatari) が645年に乙巳の変 (Isshi Incident) で蘇我氏の入鹿と蝦夷を殺し、天皇中心の権力構造を作る大化の改新 (Taika Reform) を始めました。

660年ごろ、百済新羅 (Silla) と (Tang) の連合軍 (Silla-Tang alliance) に攻められ、義慈王 (King Wija) が廃され泗沘 (Sabi) の都が落とされたため、将軍・鬼室福信 (Gwisil Boksin) は日本にいた王族の扶餘豊璋 (Buyeo Pung) を新王とするために呼び戻すことを考え、大和朝廷に軍事的支援を求めてきたため、斉明天皇 (Empress Saimei) は援軍を百済に送り、自らも九州まで遠征しましたが、661年にその地で崩御しました。また援軍も663年に白村江の戦い (Battle of Baekgang) で敗れてしまいました。鬼室福信も謀反を恐れた扶餘豊璋に斬られてしまいました。

皇太子 (Crown Prince) 中大兄皇子は近江の (province) に引き返し、そこで新たに都を作って天智天皇 (Emperor Tenji) として即位し、672年まで在位しました。668年には近江令 (Omi Code) を作り、子の大友皇子 (Prince Otomo) を太政大臣 (Daijo-daijin; Chancellor of the Realm) に任じました。天智天皇は672年に崩御する際、弟の大海人皇子 (Prince Oama) に譲位を打診しますが、大海人皇子は固辞し、奈良の吉野に引きこもってしまいました。大友皇子が即位し弘文天皇 (Emperor Kobun) になると、吉野にいた大海人皇子は自らの兵を挙げて壬申の乱 (Jinshin War) を起こし、近江朝廷を攻め滅ぼして弘文天皇を敗死させ、飛鳥に凱旋して天武天皇 (Emperor Tenmu) として即位し、飛鳥浄御原宮 (Asuka Kiyomihara Palace) を建てました。

675年に、天武天皇 (decree) を下し、仏教の肉食禁止の習慣に従うため、馬や牛、犬、猿、鳥などの肉を食べることを禁止しました。また壬申の乱の戦勝に感謝するため、娘の大伯皇女 (Princess Oku) を斎王として伊勢の斎宮 (abstinence palace) に遣わしました。

天武天皇は686年に崩御しました。生前に皇太子を決めなかったため、後継者として草壁皇子 (Prince Kusakabe) と大津皇子 (Prince Otsu) が有力視されましたが、大津皇子謀反 (treason) の罪を着せられて処刑され、草壁皇子も病死したために適任の後継者が欠けてしまい、皇后 (Empress-consort) であり草壁皇子の母の鸕野讃良皇女 (Princess Uno-no-Sarara / Uno-no-Sasara) が687年に皇位を嗣ぎ、持統天皇 (Empress Jito) となりました。

持統天皇は689年に飛鳥浄御原令 (Asuka Kiyomihara Code) を制定しました。694年には都を藤原京 (Fujiwara-kyo) に遷都しました。

697年、持統天皇退位し (abdicate)、草壁皇子の子の珂瑠皇子 (Prince Karu) に皇位を譲り、自らは太上天皇 (empress emerita) となりました。珂瑠皇子は文武天皇 (Emperor Monmu) として即位しましたが、若かったため、持統太上天皇が引き続き権勢を振るいました。

701年、大宝律令 (Taiho Code) が制定されました。この律令は改正を繰り返しながら明治まで続くことになります。また長年途絶えていた中国への使者の派遣を復活させ、遣唐使 (missions to Tang) が派遣されました。703年、持統太上天皇崩御しました。

文武天皇は即位から10年後の707年に25歳で崩御しました。第一皇子の首皇子 (Prince Obito) はまだ若かったため、中継ぎとして文武天皇の母が元明天皇 (Empress Genmei) として即位しました。

707年、秩父で銅の鉱脈が発見され、和同開珎の銅銭を大量に鋳造するようになりました。

708年、石上麻呂 (Isonokami no Maro) が左大臣 (Sadaijin; Minister of the Left)、藤原不比等 (Fujiwara no Fuhito) が右大臣 (Udaijin; Minister of the Right)に任じられました。この藤原不比等中臣鎌足の子で、鎌足の死去直前に天智天皇から藤原の氏を賜ったため、藤原と名乗りました。この藤原氏 (Fujiwara clan) はこの後何代にもわたって天皇家を影に日向に操っていきました。

奈良時代 (Nara period)

710年、元明天皇が都を奈良の平城京 (Heijo-kyo) に移し、奈良時代が始まりました。平城京 (Tang dynasty) の長安 (Chang'an) の都を模した形になっていました。

715年、元明天皇退位 (abdication) により、娘で文武天皇の姉が元正天皇 (Empress Gensho) として即位しました。

720年、「日本書紀 (Nihonshoki)」が完成しました。721年、元明太上天皇崩御しました。723年、三世一身の法 (Act of Possession in Three Generations) が施行されました。

724年、元正天皇が甥の首皇子に譲位し、首皇子聖武天皇 (Emperor Shomu) となりました。

729年、天武天皇の孫で元正太上天皇の妹婿の長屋王 (Prince Nagaya) が藤原不比等の4人の息子(藤原四兄弟)らに虚偽の罪を着せられ、死刑に処せられました。

735年に天然痘 (smallpox) の大流行 (epidemic) が始まり、737年に藤原四兄弟が全員死去しました。

740年、藤原広嗣の乱 (Fujiwara no Hirotsugu Rebellion) が起こりました。これを機に、聖武天皇平城京を離れ、短期間に遷都を繰り返すようになりました。740年には恭仁京に遷都し、744年には難波京、745年には紫香楽宮に遷都して、同年には再び平城京に戻りました。

741年、聖武天皇はすべての (province) に国分寺 (provincial temple) と国分尼寺 (provincial nunnery) を建立するよう詔を出しました。743年には毘盧遮那仏 (Vairocana Buddha) の像、いわゆる大仏 (Great Buddha) 建立を決め、建設地をめぐって紆余曲折の結果、奈良の東大寺に造ることにしました。

743年、墾田永年私財法 (Law of Perpetual Ownership of Cultivated Lands) が制定されました。748年、元正太上天皇崩御しました。

749年、聖武天皇は大仏建立中の東大寺を訪れ、 (Buddha)、 (Dharma)、 (Sangha) の三宝の奴 (disciple of the three jewels) となることを宣言しました。同年、聖武天皇は娘に譲位し、そのあと剃髪して天皇として初めて出家し (priest) となりました。光明皇后 (Empress Komyo) も夫にならって尼僧 (nun) となりました。752年、東大寺の大仏の開眼式 (Eye-Opening Ceremony) が執り行われました。

756年、聖武太上天皇 (Emperor Emeritus Shomu) が崩御しました。760年には光明皇太后 (Empress Dowager Komyo) も崩御しました。

784年、長岡京に遷都されました。

平安時代 (Heian period)

794年、第50代桓武天皇 (Emperor Kanmu) が平安京に遷都し、平安時代が始まりました。

804年、最澄比叡山天台宗 (Tendai school) を開きました。806年、空海真言宗 (Shingon school / Tantric school) を開き、819年、高野山に廟堂を建てました。

895年、菅原道真の進言により遣唐使 (missions to Tang) が廃止され、国風文化が広まりました。

990年、清少納言が「枕草子 (Pillow Book)」を著しました。

1000年〜1008年にかけて、紫式部が「源氏物語 (The Tale of Genji)」を著しました。

1052年、藤原頼通が宇治に平等院を建立しました。平等院鳳凰 (Phoenix Hall) は10円硬貨にも描かれています。

1087年、白河天皇 (Emperor Shirakawa) が退位して上皇 (emperor emeritus) となり、院政 (cloistered rule) を始めました。これは1156年の保元の乱 (Hogen Rebellion) まで70年近く続きました。1150年代から武家が台頭し、平清盛 (Taira no Kiyomori) 率いる平氏 (Taira clan) と、源義朝 (Minamoto no Yoshitomo) 率いる源氏 (Minamoto clan) とが争うようになりましたが、1160年の平治の乱 (Heiji Rebellion) で平清盛が源氏を下し、1167年に太政大臣となって権勢を振るいました。

1180年、平清盛高倉天皇 (Emperor Takakura) に退位を強要し、自分の孫を安徳天皇 (Emperor Antoku) として即位させ、自らが後見するようになりました。さらには高倉天皇の父である後白河上皇 (Emperor Emeritus Go-Shirakawa) を幽閉し、6月には安徳天皇を奉じて都を神戸の福原に遷都して、自らの新たな拠点を構築しようとしましたが、それに反発する後白河上皇の子・以仁王 (Prince Mochihito) が源氏を味方に引き入れて乱を起こし、源平合戦 (Genpei War) が始まりました。これを受けて平清盛は11月に都を再び平安京に戻して迎え撃つ体制を整えましたが、翌年、病気にかかり急死しました。

源平合戦は1185年まで続き、一ノ谷の戦い (Battle of Ichinotani)、屋島の戦い (Battle of Yashima) を経て、壇ノ浦の戦い (Battle of Dan-no-ura) で平氏が滅びました。源氏の棟梁であった源頼朝 (Minamoto no Yoritomo) は平氏から奪った所領を恩賞 (fiefs) として御家人に分け与え、その所領に地頭 (steward) を置いて管理させました。また各 (province) に守護 (constable) を置きました。

鎌倉時代 (Kamakura period)

1192年、鎌倉幕府 (Kamakura shogunate) を開いた源頼朝後鳥羽天皇 (Emperor Go-Toba) から征夷大将軍 (shogun) に任ぜられましたが、1199年に死去しました。

新たに将軍となった源頼朝の子の源頼家は年若かったため、御家人の筆頭の北条時政執権 (shikken) となり新将軍を補佐しましたが、他の御家人との間で争いが起こり、頼家は将軍の座を追われました。その弟の実朝が次の将軍となりましたが、程なく暗殺されて源氏は断絶し、以降は北条氏 (Hojo clan) が幕府の実権を握りました。

1221年、承久の乱 (Jokyu Disturbance) が起こり、鎌倉幕府軍が朝廷軍を打ち破り、後鳥羽上皇らを遠国に流しました。1225年に北条泰時が「御成敗式目」を制定し、鎌倉幕府がようやく安定しました。

鎌倉時代は仏教にも大きな変化があった年です。末法 (Latter Day of the Law) 思想の広がりとともに、1190年代には法然浄土宗 (Pure Land school) 、1200年代には禅宗 (Zen Buddhism) の臨済宗 (Rinzai school) が、1227年には道元禅師の曹洞宗 (Soto school) がもたらされました。さらに1200年代半ばになると親鸞浄土真宗 (Jodo Shinshu sect)、日蓮日蓮宗 (Nichiren school) が広がりました。

1268年、元朝 (Yuan dynasty) を打ち建てたモンゴルのクビライ・ハン (Kublai Khan) は、日本に朝貢を要求し、聞き入れなければ報復すると脅してきました。鎌倉幕府はその要求を拒否したため、1274年、元軍の最初の侵攻が始まりました。600隻以上の船に、カタパルトや可燃性ミサイル、弓矢で武装した元と高麗 (Goryo) の連合軍23000人を前に、日本のサムライたちが応戦しました。一対一の戦闘に慣れた日本軍は、連合軍の騎馬隊の集団の前には不利な戦いを強いられましたが、突然襲来した台風により連合軍は壊滅しました。1281年に元は再度日本を侵略してきましたが、またしても台風の襲来によって壊滅的な打撃を受け、敗走しました。

この元寇 (Mongol invasions) のころから鎌倉幕府の屋台骨がゆがみ始めました。1293年には相模湾震源として大地震津波が発生し、鎌倉にも甚大な被害をもたらしました。

1333年、新田義貞鎌倉の戦い (Siege of Kamakura) で鎌倉を占領、破壊し、鎌倉幕府を滅亡させました。その後、後醍醐天皇 (Emperor Go-Daigo) は建武の新政 (Kenmu Restoration) を行い再び天皇中心の政治体制を試みますが、武士の反発が起こり、1336年に足利尊氏によって後醍醐天皇は吉野に追放されました。

室町時代 (Muromachi period)

1336年〜1573年の期間をいいます。

1336年に足利尊氏後醍醐天皇を追放して京に入り、1338年に征夷大将軍となって室町幕府 (Ashikaga shogunate) を開きました。朝廷はしばらく南朝 (Southern court) と北朝 (Northern court) とに分かれ、1392年に南朝方が足利義満に降伏するまで南北朝時代が続きました。

1397年、足利義満金閣寺を建立しました。

1450年、龍安寺が建てられました。

1467年、応仁の乱 (Onin War) が始まり、1477年まで続きました。これを機に旧来の守護は力を失い、各地で新しい大名 (daimyo; lord) が台頭しました。

1489年、足利義政銀閣寺を建立しました。

1543年、種子島ポルトガル (Portuguese) が漂着し、その際に鉄砲 (musket) がもたらされました。

1549年、イエズス会 (Society of Jesus / Jesuits) のフランシスコ・ザビエル (Francis Xavier) が鹿児島に到着し、日本にキリスト教 (Christianity) の布教を始めました。それとともに各地でキリシタン大名 (Christian daimyo) が出てきました。

1555年、毛利元就宮島の戦い (Battle of Miyajima) を制し中国地方 (Chugoku region) の覇者となりました。

1560年、桶狭間の戦い (Battle of Okehazama) で今川義元織田信長に討たれました。

1570年、姉川の戦い (Battle of Anegawa) がありました。

1573年、最後の将軍、足利義昭織田信長により京を追放され、室町幕府が終わりました。

安土・桃山時代 (Azuchi-Momoyama period)

1568年に織田信長が上洛してから、1600年の関ヶ原の合戦 (Battle of Sekigahara) までの期間をいいます。戦国時代 (Sengoku period) ともいいます。

1582年、本能寺の変 (Incident at Honno-ji) で織田信長明智光秀に討たれ、明智光秀山崎の戦い (Battle of Yamazaki) で豊臣秀吉に破られました。

同年、伊東マンショ (Mancio Ito)、千々石ミゲル (Miguel Chijiwa)、中浦ジュリアン (Juliao Nakaura)、原マルチノ (Martinho Hara) からなる天正使節 (Tensho embassy) がローマに向けて派遣されました。

1585年、豊臣秀吉は朝廷から太政大臣 (Chancellor) に任ぜられ、関白 (Imperial Regent) となりました。1588年、刀狩 (sword hunt) を実施しました。

1590年、豊臣秀吉は最後まで反抗していた小田原城の北条氏を降伏させ、天下を統一しました。

1591年、豊臣秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自らは太閤と称しました。

1592年、豊臣秀吉 (Ming) を攻撃するため、朝鮮出兵を開始しました。秀吉は宇喜多秀家を総大将として半島へわたり、小西行長漢城(ソウル)を占領して平安 (Pyeongan) を攻め、加藤清正咸鏡 (Hamgyong)を、黒田長政黄海 (Hwanghae) を、毛利勝永江原 (Gangwon) を、福島正則忠清 (Chungcheong) を、小早川隆景全羅 (Jeolla) を、毛利輝元慶尚 (Gyeongsang) を、宇喜多秀家京畿 (Gyeonggi) をそれぞれ攻め、4ヶ月で満州への道筋を確保しました。朝鮮王の宣祖王 (King Seonjo) は都を捨てて義州 (Wiju) へ逃亡し、明に軍事支援を要請しました。明の万歴帝 (Wanli Emperor) は、日本の野望を阻止するために李如松 (Li Ru-song) 将軍率いる43000の兵を遣わし、平壌 (Pyongyang) を奪還しました。1593年に李如松率いる軍勢は漢城を包囲しましたが、小早川隆景宇喜多秀家立花宗茂吉川広家らが迎撃し、碧蹄館の戦い (Battle of Byeokjegwan) で打ち破りました。

1593年、豊臣秀頼が生まれました。1595年、関白・秀次が秀吉への謀反の疑いをかけられ、高野山で自害しました。

1597年、キリシタンの弾圧をし、フランシスコ会の宣教師 (Franciscan missionary) や日本人の平信徒 (layman) ら26名が逮捕され、長崎で (crucifixion) に処せられました。彼らはのちに日本二十六聖人 (26 Martyrs of Japan) として1627年にローマ教皇ウルバヌス8世 (Pope Urban VIII) により列福され (beatified)、1862年にピウス9世 (Pope Pius IX) により列聖され (canonized) ました。

1597年、織田信長が破った石山本願寺の跡地に1582年から建造中だった大阪城が完成しました。また同年、小早川秀秋を総大将として二度目の朝鮮出兵が行われましたが、李舜臣 (Yi Sun-sin) の水軍の抵抗などもあって一度目の出兵時よりも成果を上げることはできず、さらに1598年に豊臣秀吉が死去したこともあり、侵攻は中止されました。

豊臣秀吉の死後、子の秀頼を支える五大老 (Council of Five Elders) のメンバーであった徳川家康は、権力を独占しようと図り、五奉行 (Five Commissioners) の1人である石田三成と激しく対立しましたが、1600年の関ヶ原の戦い (Battle of Sekigahara) により石田三成らに勝利しました。

「英語で社会科〜日本史(2)〜」に続きます。

参考