Yuki-KG’s blog

アメリカやイギリス、英語のことなど書いています。

英語で社会科〜日本史(2)〜

中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。

「英語で社会科〜日本史(1)〜」はこちらからごらんください。

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江戸時代 (Edo period)

徳川家康が1603年に征夷大将軍 (shogun) に任ぜられ、江戸に幕府 (Tokugawa shogunate) を開いてから、1867年に徳川慶喜大政奉還するまでを江戸時代といいます。

徳川家康関ヶ原の戦い (Battle of Sekigahara) で石田三成らを破りましたが、豊臣方はまだ豊臣秀頼を主君として大阪城に残っており、牢人 (ronin) たちが居座っていたため、1615年に大阪の陣 (Battle of Osaka) で豊臣秀頼を討ち、豊臣方を一掃しました。

江戸時代の政治体制は幕藩体制とよばれ、幕府が国家レベルの政治を担当し、地方自治 (domain) の単位で各大名に任されました。関ヶ原以前から徳川方に従っていた大名を譜代大名とし、江戸の近くの藩に割り当てました。豊臣方の大名は外様大名として遠国を割り当てました。

各大名は藩主 (lord) として、幕府が割り当てた領国を治めますが、その妻と嫡男は江戸の中に住むことを強制されました。そして藩主自身は原則2年に1度、自分の領国と江戸とを往復することが義務付けられました。藩主が引退すると、江戸にいた嫡男があらたに藩主となり、前藩主がそれまで治めていた領国に初めて入る(お国入り)ことになります。

キリスト教 (Christianity) は徳川家康によって1614年に禁止されました。それでも信仰をやめない人たちは、1637年の島原の乱 (Shimabara Rebellion) のように弾圧されました。3代将軍、徳川家光の時代になると、海外への渡航や外国の本を読むこと、船を建造することも禁じられました。そして1639年には完全に鎖国 (national seclusion) がされ、オランダ人以外の西洋人の入国が禁止されたほか、1641年には中国人、朝鮮人、オランダ人以外のすべての外国人の入国が禁止となりました。

江戸の町は1657年の明暦の大火 (Great Fire of Meireki) による大部分の焼失を機に、新しく深川や本所などの町人が住まうための町が整備されました。

江戸幕府は、朱熹 (Zhu Xi) の儒学 (Neo-Confucianism) を「朱子学」として全国の藩校などで奨励しました。それに対し、王陽明 (Wang Yanming) が提唱した「陽明学 (Yanmingism)」も入ってきました。どちらも、世の中の物事は理によって動かされているという考え方で、その理を身につけるために修養するのですが、朱子学は理を外部の権威から取り入れていく考え方でどちらかと言えば権威主義的、陽明学は自己の心の中に理を見出すという考え方からどちらかと言えば反権力思考という特徴があります。

朱子学陽明学についてはこちらもごらんください。

さらに、日本固有の事物を研究する「国学」や、オランダからの学問である「蘭学」も研究されました。

1700年ごろの元禄年間には文化の最盛期を迎えましたが、それ以降になると、幕府の屋台骨が年を経るごとに揺らぎ始めました。1782年に、天明の大飢饉 (Great Tenmei famine) が始まりました。1783年には浅間山噴火 (eruption) し、また同年アイスランドラキ (Laki) 火山が噴火した影響で世界的に気温が低下したこともあり、天明の大飢饉は1788年まで続きました。

1787年、松平定信老中 (senior shogunal councillor / council of elders) となり、幕府財政改善のため寛政の改革 (Kansei Reforms) が行われました。

1792年、ロシア人のアダム・ラクスマン (Adam Laxman) が蝦夷根室に漂着しました。また1804年には同じくロシアのニコライ・レザノフ (Nikolai Rezanov) が長崎に来て通商を求めましたが、幕府はこれを拒否しました。

1837年、大阪の陽明学者、大塩平八郎大塩平八郎の乱 (Rebellion of Oshio Heihachiro) を起こしました。乱はすぐに鎮圧され、大塩は潜伏先で捕方に包囲されて自害しました。

1841年、天保の改革 (Tenpo Reforms) が行われました。

1853年、アメリカ海軍のマシュー・C・ペリー提督 (Commodore Matthew C. Perry) が4隻の軍艦と共に浦賀に現れました。ペリーやタウンゼント・ハリス (Townsend Harris) の砲艦外交 (gunboat diplomacy) により、翌年にはアメリカとの間に日米和親条約 (Japan-US Treaty of Peace and Amity) が、さらに1858年には日米修好通商条約 (Treaty of Amity and Commerce between Japan and the United States) が締結されました。同様にイギリスとは1854年に日英和親条約 (Anglo-Japanese Friendship Treaty)、ロシアとは1855年に下田条約 (Treaty of Shimoda)、フランスとは1858年に日仏修好通商条約 (Treaty of Amity and Commerce between France and Japan) が締結されました。これにより国内の数ヶ所の港がこれらの国々に開放され、治外法権 (extraterritoriality) が認められ国内に領事裁判所 (consular court) が置かれました。

これらの条約締結は朝廷の勅許を得ずに行われたため、ほうぼうからの反発を招きましたが、大老 (Great Elder) の井伊直弼安政の大獄 (Ansei Purge) によりこれらの反対者を粛清しました。しかし井伊大老は1860年に桜田門外の変 (Sakuradamon Incident) で水戸藩 (Mito Domain) や薩摩藩 (Satsuma Domain) の藩士たちに襲撃され、殺害されてしまいました。

幕府は、朝廷との関係改善のために公武合体 (Union of the Emperor and the Shogun) を推し進めようとしました。

在野の若い武士を中心に全国的に尊王攘夷 (Revere the Emperor, Expel the Barbarians) 運動が巻き起こり、外国人が襲われたり、いくつかの藩では外国艦船を砲撃したりしましたが、下関戦争 (Shimonoseki Campaign) や薩英戦争 (Anglo-Satsuma War) などで手痛い報復を受け、外国の圧倒的な武力の前では攘夷など無力であることを悟った者の中から、徐々に開国論に傾いていきました。たいていの藩では、攘夷を唱える過激派はそのうち粛清されていきました。

それでも長州藩などは攘夷過激派が先鋭化し、ついには朝廷を警護する薩摩藩会津藩兵を狙って御所 (Imperial Palace) を襲撃する禁門の変蛤御門の変 (Kinmon Incident / Hamaguri Gate Rebellion) を起こしたため、幕府による長州征伐 (Choshu Expedition) を受けることとなりました。しかし、英国の援助を受けて最新鋭の兵器で武装した長州藩は容易に崩れなかったのと、大阪城に陣をしいていた将軍・徳川家茂が陣没したため、長州征伐は中止されました。

長州藩は密かに薩摩藩と同盟を結び、幕府を倒す動きを始めました。将軍・徳川慶喜は1867年、大政奉還を行い、ここに江戸幕府は終焉を迎えました。

明治時代 (Meiji period)

長州藩薩摩藩の同盟は、更に徳川慶喜を追い落とすため、朝廷の権威を利用して自らを官軍として、1868年鳥羽・伏見の戦い (Battle of Toba-Fushimi) を皮切りに旧幕府方に攻撃を仕掛けました。官軍の持つミニエー銃 (Minié rifle) やガトリングガン (Gatling gun) などの近代兵器の前に旧幕府方はなすすべがなく、慶喜は軍を放棄し大阪から船に乗って江戸へ逃亡しました。さらに官軍は江戸に進軍して慶喜を降伏させ、残った抵抗勢力戊辰戦争 (Boshin War) によって1869年までにはすべて平定しました。

1868年に明治天皇が宣布した五箇条の御誓文 (Five Charter Oath) をもとに、官軍を構成した薩長土肥藩を中心に、従来からの太政官 (Council of State) を幕府に代わる新政府とし、三条実美右大臣 (Minister of the Right) に就任しました(三条は1871年に太政大臣 (Chancellor / Chief-Minister) となりました。左大臣 (Minister of the Left) はしばらく空席でしたが、1874年になって島津久光が就任しました)。1869年に明治天皇を伴って新政府を江戸に移し、江戸を東京と改めました。かくして明治維新 (Meiji Restoration) が成し遂げられました。

1869年、身分制度が改定され、公家や大名は華族となり、その規模や階級などに応じて公爵 (prince)、侯爵 (marquis)、伯爵 (count)、子爵 (viscount)、男爵 (baron) の5段階の爵位を叙せられました。また武士は士族、農民や町人などは平民 (commoners) と称されるようになりました。

1871年には従来の藩に代わって (prefecture) が設けられ、中央から知事が派遣されるようになりました。

同年、三条実美に代わって右大臣となった岩倉具視による岩倉使節団 (Iwakura Mission) が欧米視察のため日本を出港しました。

1872年に、東京・新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通しました。

しかし、朝鮮 (Joseon) は新政府を認めず、朝鮮居留日本人に不利益が出始め、1873年ごろから問題となったため、参議 (Associate Counselor) の西郷隆盛は自ら全権大使として朝鮮と交渉しようとしましたが、このころ帰国した岩倉具視らは、交渉が決裂したときに朝鮮と戦争になり国力が疲弊することを恐れたためこれに反対し、結果として遣使が延期されたため、それに抗議した西郷隆盛板垣退助らは一斉に参議を辞職し下野しました。

急激な変革は各所で軋轢を生み、特に不利益を被った士族を中心に反乱が頻発し、下野した西郷隆盛を担ぎ上げた西南の役 (Seinan War / Satsuma Rebellion) が1877年に起こりましたが、鎮圧され西郷は自決しました。

板垣は下野後、自由民権運動 (Freedom and People's Rights Movement) の旗手となりました。民間を中心に人民の代表による議会の設立を求める声が高まり、1875年に元老院 (Chamber of Elders)、1878年に府県会 (prefectural assembly) が設立され、ついに1881年には国会開設の詔が下されました。

1885年には太政官が廃止されて内閣 (Cabinet) ができ、伊藤博文が初代の内閣総理大臣 (Prime Minister) となりました。

1888年には天皇を輔弼する機関として枢密院 (Privy Council) が設立され、内閣総理大臣は枢密院から選出されることとなりました。

1889年2月11日、大日本帝国憲法 (Constitution of the Empire of Japan) が発布されました。この憲法のもとで、貴族院 (House of Peers) と衆議院 (House of Representatives) からなる帝国議会 (Imperial Diet) が成立しました。

1894年、東学党の乱 (Donghak Rebellion) 鎮圧の名目で朝鮮に派兵してきた (Qing) との間で日清戦争 (First Sino-Japanese War / Japan-Qing War) が勃発しました。1895年に日本が勝利し、下関条約 (Treaty of Shimonoseki) によって台湾、遼東半島 (Liaodong Peninsula) などが日本に割譲されましたが、遼東半島はロシア、ドイツ、フランスの干渉を受け、やむなく手放すこととなりました。

1897年、朝鮮が大韓帝国 (Empire of Korea) となりました。

東進の気配を見せたロシアを抑えるべく、1902年、イギリスとの間で日英同盟 (Anglo-Japanese Alliance) を締結しました。これによりロシアとの関係が悪化し、1904年、日露戦争 (Russo-Japanese War) が勃発しました。

1905年、日露戦争に勝利した日本は大韓帝国との間で日韓協約 (Japan-Korea Treaty of 1905) を締結し、初代内閣総理大臣伊藤博文が韓国の統監 (Resident-General) となりました。伊藤は当初は大韓帝国を支援していましたが、帝国陸軍 (Imperial Army) の圧力によって韓国併合 (annexation of Korea) に合意したため、韓国人活動家、安重根 (An Jung-Geun) に1909年10月26日、暗殺されてしまいました。大韓帝国は1910年8月、日本に併合されました。

伊藤暗殺後、明治天皇は急速に老け込んだといわれ、3年後の1912年7月30日に崩御しました。

大正時代 (Taisho period)

1912年7月30日、嘉仁皇太子が践祚し、元号 (era name) が「大正」と改められました。大正時代はリベラルな運動が盛んとなり、大正デモクラシー (Taisho Democracy) とよばれました。

1914年、第一次世界大戦 (World War I) が勃発し、日英同盟を根拠に日本も参戦、ドイツに対し宣戦布告しました。日本が勝利し、中国本土内にあったドイツの植民地を日本が手に入れました。

1915年、対華21ヶ条要求 (Twenty-One Demands) を中華民国 (Republic of China) に送りました。

1921年11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺され (assassinated) ました。11月25日、大正天皇が不例のため裕仁皇太子が摂政 (regent) となりました。

1922年、ワシントン海軍軍縮条約 (Washington Naval Treaty / Five-Power Treaty) が締結されました。

1923年9月1日、関東大震災 (Great Kanto Earthquake) が発生し、東京を中心に甚大な被害を受けました。

1925年、普通選挙 (General Election Law) が施行され、一般国民が政治に参加することがかなり認められてきましたが、数年前のロシア革命の余波を気にした政府は共産主義への警戒心を強め、共産主義思想を取り締まる治安維持法 (Peace Preservation Law) が同時に成立しました。

1926年12月25日、大正天皇崩御し、大正時代が終わりました。

昭和時代 (Showa period)

1926年12月25日、裕仁皇太子が践祚し、元号書経 (Book of Documents) を由来とした「昭和」に改められました。

1928年6月4日、満州 (Manchuria) という、現在の中国遼寧省吉林省黒竜江省、および内モンゴル自治区東部にまたがる地域に駐留していた関東軍 (Kwantung Army) が、張作霖 (Zhang Zuolin / Chang Tso-lin) の乗った南満州鉄道 (South Manchuria Railway) の列車を爆破し、殺害しました。

1929年、世界大恐慌が始まりました。日本もその煽りを食って国内が不景気になり、大陸の拡大によって活路を見出そうという気運が高まってきました。

1931年9月18日、中華民国奉天郊外の柳条湖 (Liutiao Lake) で、関東軍南満州鉄道を再び爆破し、これを張作霖の子の張学良 (Zhang Xueliang / Chang Hsüeh-liang) による破壊工作であるとして軍事行動に移り、満州全土を占領してしまいました。これらの事変を満州事変 (Mukden Incident / Manchurian Incident / 9.18 Incident) といいます。

当初、日本は満州を日本の領土としようとしましたが、世界からの猛反対に遭ったため、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀 (Aisin-Gioro Puyi) を元首とした、満州国 (Manchukuo) という傀儡国家 (puppet state) を設立しようとしました。満州国の承認に反対だった犬養毅首相は、1932年5月15日に海軍将校らに射殺されました。9月15日、満州国は承認されました。

中華民国はこれに反発し、国際連盟 (League of Nations) に訴えました。ヴィクター・ブルワー=リットン (Victor Bulwer-Lytton) を団長とするリットン調査団 (Lytton Commission) が、日本・満州・中国に派遣され、聞き取り調査をした結果、満州国の設立は認められないという結論に達し、リットン報告書 (Lytton Report) が国際連盟に提示されました。それに抗議した日本は1933年3月27日、国際連盟を脱退しました。

1936年2月26日、陸軍の将校らが兵を率いて政府首脳を襲撃して殺傷し立て籠る二・二六事件 (February 26 Incident) が発生しました。昭和天皇の強い意向により反乱将兵らは鎮圧されました。

1937年7月、日本と中華民国が北京の盧溝橋 (Marco Polo Bridge) で衝突し、それをきっかけに日中戦争 (Second Sino-Japanese War) が始まりました。

資源の乏しい日本はさらに南方に活路を求め、仏領インドシナ (French Indochina) (現在のベトナムカンボジア)方面に進出していき、大東亜共栄圏 (Greater East Asian Co-Prosperity Sphere; GEACPS) の建設を目指しました。

さらに、1940年9月にはドイツ、イタリアと日独伊三国同盟 (Tripartite Pact) を締結、枢軸国 (Axis Powers) の一員としてアメリカなどの連合国 (Allied Powers) と対峙するようになりました。

1941年12月8日、ハワイの真珠湾 (Pearl Harbor) に奇襲攻撃 (surprise attack) をかけ、米艦アリゾナ (USS Arizona) を沈没させたほか、艦船や航空機に甚大な損害を与えました。昭和天皇詔勅渙発し、米英蘭に対して開戦を宣言しました。翌日、米国のフランクリン・ルーズベルト (Franklin Roosevelt) 大統領は議会で演説し、日本に対する開戦を宣言しました。

日本は当初はマレー半島や香港、ビルマ、フィリピン、蘭領東インド (Dutch East Indies) (現在のインドネシア)などを占領したり、米本土に空襲 (raid) を行ったりと、破竹の勢いで進撃しましたが、ミッドウェー海戦 (Battle of Midway) での敗退を機に戦局が徐々に悪化し、ガダルカナルの戦い、アッツ島守備隊玉砕、インパール作戦など、旗色がだんだん悪くなっていきました。

日本本土への初めての空襲は1944年6月に八幡製鉄所を目標に行われました。この時は中国の成都の基地からの出撃だったため九州北部までしか攻撃できませんでしたが、アメリカがマリアナ諸島を奪回・占領してからは、そこから日本の大部分の都市を攻撃できるようになりました。1945年1月に米陸軍第21爆撃集団 (XXI Bomber Command) の司令官 (commander) にカーチス・ルメイ (Curtis LeMay) が就任すると、日本は曇り空が多いため軍事目標を定めた精密爆撃 (precision bombing) は非効率として、焼夷弾 (incendiary bomb) による都市の無差別爆撃 (area bombing) を主張しました。それを受け、B-29爆撃機による空襲が頻回行われ、3月10日の東京大空襲 (Operation Meetinghouse) など、日本の大多数の都市が破壊されました。

3月26日から、沖縄戦 (Battle of Okinawa) が始まり、一般国民を多数巻き添えにして6月23日には沖縄全土が占領されました。

連合国は7月26日、ドイツのポツダムポツダム会議 (Potsdam Conference) を開き、対日講和条件を示したポツダム宣言 (Potsdam Declaration) をまとめましたが、日本はこれに回答しませんでした。

8月6日、原子爆弾 (atomic bomb) を積んだ米爆撃機エノラ・ゲイテニアン島を出発し、広島市内に原子爆弾を投下しました。3日後には小倉市原子爆弾を投下しようとしましたが、日本側の対空砲火による激しい抵抗に遭い、目標を長崎市に変更して2発目の原子爆弾を投下しました。8月8日にはソ連日ソ不可侵条約 (Soviet-Japan Neutrality Pact) を破って満州に侵入してきました。

8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦となりました。9月2日に東京湾上に停泊した戦艦ミズーリ (USS Missouri) 上で降伏文書 (Instrument of Surrender) に署名し、戦争が終結しました。一連の戦争は当時、大東亜戦争 (Greater East Asia War) と呼ばれていましたが、終戦後は太平洋戦争 (Pacific War) と言い換えられ、こんにちではこちらの呼称が一般的となりました。

1946年、連合国からなる極東国際軍事裁判 (International Military Tribunal for the Far East) による東京裁判 (Tokyo Trial) が始まり、1948年まで続きました。1948年、東條英機元首相ら7名の被告に絞首刑 (death by hanging)、そのほかのほとんどの被告に終身禁錮 (imprisonment for life) が宣告されました、絞首刑は1948年12月23日に執行されました。

1946年11月3日、日本国憲法 (Constitution of Japan) が公布され、翌年5月3日から施行されました。これをもって国の名前も大日本帝国 (Empire of Japan) から日本国 (State of Japan) に変わり、民主国家として生まれ変わりました。

1949年、京都大学湯川秀樹教授が、大阪大学で研究していた中間子 (meson) の理論によりノーベル物理学賞 (Nobel Prize in Physics) を受賞し、アジア人3人目、日本人初のノーベル賞受賞者 (Nobel laureate) となりました。

1951年、サンフランシスコ条約 (Treaty of San Fancisco) が調印され、翌年4月28日に発効しました。これにより日本が再び独立国となると同時に、日米安保条約 (U.S.-Japan Security Treaty) が調印されました。

1952年、警察予備隊 (National Police Reserve) 設立。1954年には防衛庁 (Defense Agency) が発足し、自衛隊 (Japan Self Defense Force) となりました。

1955年、民主党 (Japan Democratic Party) と日本自由党 (Liberal Party) が合併し自由民主党 (Liberal Democratic Party) が発足、55年体制 (1955 System) が始まり、一部期間を除いて今日まで日本の政権を維持することとなりました。

1956年、日本は国際連合 (United Nations) に加盟しました。

1964年10月、東京でアジア初のオリンピック (Olympic Games) が開かれました。選手村 (Olympic village) はのちに代々木公園として整備されました。

1970年、米国施政下の沖縄でコザ騒動 (Koza riot) が勃発。沖縄の日本復帰運動が高まり、1971年、沖縄返還協定 (The 1971 Okinawa Reversion Agreement) が結ばれ、翌年5月15日、沖縄が返還されました。

1972年5月30日、日本赤軍 (Japanese Red Army) がイスラエルテルアビブ (Tel Aviv) のロッド空港で銃を乱射し26人を殺害するテロ事件 (Lod Airport massacre) が発生しました。

1974年、佐藤栄作首相がノーベル平和賞 (Nobel Peace Prize) を受賞しました。

1983年、任天堂 (Nintendo) がファミリーコンピュータ (Nintendo Entertainment System / Family Computer / Famicom) を発売しました。

1987年、マサチューセッツ工科大学利根川進教授がノーベル生理学・医学賞 (Nobel Prize in Physiology or Medicine) を受賞しました。

1989年1月7日、昭和天皇崩御しました。在位期間は、62年と、1926年と1989年のそれぞれ1週間ずつでした。

平成・令和時代 (Heisei and Reiwa periods)

1989年1月8日、明仁皇太子が践祚し、元号史記 (Records of the Grand Historian) と書経に由来する「平成」と改められました。2月、昭和天皇大喪の礼が行われました。昭和天皇崩御後1年間は皇室では服喪期間のため、新天皇即位の礼は1990年に行われました。

1991年、湾岸戦争 (Gulf War) が勃発し、日本は海上自衛隊 (Japan Marine Self Defense Force) の掃海艇 (minesweeper vessel) 6隻をペルシャ湾に派遣しました。

1991年、雲仙・普賢岳噴火し (erupt)、報道関係者や地元消防団員らが犠牲になりました。1993年には北海道の奥尻島でも火山 (volcano) の噴火 (eruption) がありました。

日本経済はバブル経済 (bubble economy) とよばれる好景気でしたが、1992年までに日経平均株価 (Nikkei 225) が半分以下に下落、失われた10年 (Lost Decade) が始まりました。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災 (Great Hanshin-Awaji Earthquake) が発生し、6000人以上が死亡しました。3月20日にはオウム真理教 (Aum Shinrikyo) による東京都心の地下鉄へのサリンを使ったテロが発生しました。

1997年、京都議定書 (Kyoto Protocol) が発効しました。

2001年、小泉純一郎首相が政権に就きました。2002年には北朝鮮に電撃訪問し、当時の金正日 (Kim Jong-Il) 総書記と初の日朝首脳会談を実施し、日朝平壌宣言 (Japan–North Korea Pyongyang Declaration) に調印して、拉致被害者5人を日本に帰国させることに成功しました。

2006年には安倍晋三首相があとを引き継ぎましたが、2007年に辞任して福田康夫首相が就任、2008年には麻生太郎首相に交代となりました。

2009年、衆議院選挙で自民党が敗退し、民主党 (Democratic Party of Japan) が初めて与党 (ruling party) となりました。

2011年3月11日、東日本大震災 (Great East Japan Earthquake) により東京を含む東日本で建物の倒壊が発生し、死者が発生したほか、首都圏の公共交通機関がほとんど停止しました。また東北地方の太平洋沿岸部を中心に津波 (tsunami) が発生し、1万人以上が死亡しました。さらに、福島第一原子力発電所 (Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant) がその津波の影響で被災し、周辺地域に放射能汚染 (radioactive contamination) を引き起こしました。

2012年、民主党が選挙で敗退、自民党が再び政権を奪取し、安倍晋三首相が再び就任して、アベノミクス (Abenomics) を始めました。

2016年8月、天皇は国民向けのビデオメッセージで、高齢による自らの公務遂行に対する懸念をのべ、引退の意思を暗黙的に伝えました。それを受け、2017年に国会は皇太子 (Crown Prince) 徳仁親王に譲位することを認める法律を可決し、2019年4月30日をもって退位 (abdication) とすることとなりました。

2019年4月1日、次の元号を日本の万葉集を由来とした「令和」とする旨が発表されました。4月30日、天皇退位して (abdicate) 上皇 (Emperor Emeritus) となり、皇后 (Empress) は上皇后 (Empress Emerita) となりました。翌5月1日に元号が改められ、徳仁皇太子が即位しました。同年11月、即位の礼が行われました。

2020年2月ごろから、中国の武漢 (Wuhan) を起源とする新型コロナウイルス (novel coronavirus) による新型コロナウイルス感染症 (coronavirus disease 2019; COVID-19) が世界的に流行し、パンデミック (pandemic) となって現在まで続いています。

2021年7月〜9月、東京で2度目のオリンピックと、初のパラリンピック (Paralympic Games) が開催されました。

2022年7月8日、安倍晋三元首相が選挙運動 (election campaign) 中に銃撃され死亡しました。首相経験者が殺害されたのは、東京裁判に伴う法務死を除けば、1936年の斎藤実高橋是清以来です。

参考