Yuki-KG’s blog

アメリカやイギリス、英語のことなど書いています。

英語で社会科〜世界史(1)〜

中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。

今回は世界史編です。地理編と日本史編はこちらをご覧ください。

Contents

人類の起源

人類は、直立二足歩行してから、猿人 (Australopithecine) →原人 (Homo erectus) →旧人 (archaic human) →新人 (early modern human) の順に進化していきました。

猿人は、約700万年前に、アフリカでアウストラロピテクス (Australopithecus) などが出現しました。

原人は、約240万年前に出現し、簡単な言葉を話したり、火を使ったり、狩猟・採集生活を送ったりしました。ジャワ原人 (Java Man)(写真上)、北京原人 (Peking Man)(写真下) などが発見されています。

Java Man.jpg
By J. H. McGregor, J. Arthur Thomson. - http://www.gutenberg.org/files/20417/20417-h/20417-h.htm, Public Domain, Link
Peking Man reconstruction.jpg
By Gary Todd - https://www.flickr.com/photos/101561334@N08/9829520873/, CC0, Link

旧人は約60万年前に出現し、氷河期に適応した生活を送っていました。ドイツで発見されたネアンデルタール人 (Neanderthal) が有名です。

Neanderthaler Fund.png
By Hermann Schaaffhausen - «Ther Neanderthaler Fund». Publisher: Marcus, Bonn, Public Domain, Link

新人は、ホモ・サピエンス (Homo sapiens) ともいい、約20万年前に出現し、現在の人類とほぼ同じ種類の人類です。南フランスで発見されたクロマニョン人 (Cro-Magnon) が有名です。

The American Museum journal (c1900-(1918)) (17972406310).jpg
By Internet Archive Book Images - https://www.flickr.com/photos/internetarchivebookimages/17972406310/ Source book page: https://archive.org/stream/americanmuseumjo16amer/#page/n35/mode/1up, No restrictions, Link

今から約1万年前までの時代を旧石器時代と言います。約1万年前から、更新世 (Pleistocene)、完新世 (Holocene) に移行し、地球の温暖化が進んでいき、小動物が増えていきました。

文明

紀元前3000年ごろから、エジプト (Egypt)、メソポタミア (Mesopotamia)、エーゲ (Aegean)、インダス (Indus Valley)、中国 (China)などの文明 (米 civilization 英 civilisation) が生まれ始めました。

エジプト文明

エジプト文明は、ナイル川 (the Nile) 流域の文明です。ナイル川は夏季に氾濫しますが、冬になると水がひいた後の土地が肥沃になり、これを利用した灌漑農業 (irrigation) が発展しました。

はじめノモス (nomos) とよばれる小規模な集落が点在していましたが、次第に統合されていき、紀元前3000年ごろには巨大な王国ができました。王はファラオ (pharaoh) と呼ばれ、神の子として人々を支配しました。

第6王朝 (the Sixth Dynasty) までは古王国 (the Old Kingdom) と呼ばれ、メンフィス (Memphis) に都が置かれました。前21世紀ごろの第11〜12王朝時代にはエジプトを再統一してテーベ (Thebes) に都が移され、中王国 (the Middle Kingdom) になりました。前18世紀に遊牧民ヒクソス (Hyksos) が侵入して中王国を滅ぼし、第15〜16王朝を建てました。

前1567年にヒクソスが滅ぼされ、新王国 (the New Kingdom) として第18王朝が建てられました。アメンホテプ4世 (Amenhotep IV) が都をテーベからアマルナ (Amarna) に遷都し、一神教を強制する宗教改革を行いました。第19王朝では、前1286年ごろラメス2世 (Ramesses II) がカデシュの戦い (the Battle of Kadesh) でヒッタイト (the Hittites) と戦い勝利してエジプトは隆盛しましたが、前12世紀ごろには次第に海の民 (the Sea Peoples) の攻撃を受けるようになりました。その後エジプトは衰退していき、前7世紀ごろにはアッシリアに侵入され、前525年にはアケメネス朝 (the Achaemenid Empire) に征服されました。

王墓としてピラミッド (pyramid) が造られました。特にクフ (Khufu) 王のギザの大ピラミッド (the Great Pyramid of Giza) (写真)が最大とされています。墓にはミイラ (mummy) や「死者の書 (the Book of the Dead)」などがおさめられました。

Giza-pyramids.JPG
By Robster1983 at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons by Leoboudv using CommonsHelper., CC0, Link

象形文字であるヒエログリフ (hieroglyph) (写真)という文字が使われ、それを簡略化したヒエラティック (hieratic)、デモティック (demotic) という文字がパピルス (papyrus) という紙に描かれました。太陽暦 (solar calendar)、十進法 (decimal) が用いられました。

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By NaySay - fr:Image:Egypt Hieroglyphe4.jpg Afbeelding van hiërogliefen, afkomstig van gebruiker w:fr:Utilisateur:Aoineko en geplaatst onder de GNU Vrije Documentatie Licentie door deze., CC BY-SA 3.0, Link

メソポタミア文明

メソポタミア文明 (Mesopotamian civilization) は、現在のイラクの、チグリス川 (the Tigris River)、ユーフラテス川 (the Euphrates River) の間の沖積平野部で起こり、大規模な灌漑農業で有名です。この辺りから、シリア、パレスチナ、エジプトまで含む地域のことをオリエント (Orient) といいます。

バグダッド (Baghdad) を境にメソポタミアの北部地域のことをアッシリア (Assyria)、南部地域のことをバビロニア (Babylonia) と呼び、バビロニアのうち古代都市ニップル (Nippur) より北側をアッカド (Akkad)、南側をシュメール (Sumer) といいます。

紀元前3000年ごろには、シェメールにシュメール人 (Sumerian) がウル (Ur)、ウルク (Uruk)、ラガシュ (Lagash) などの都市に都市国家 (city state) を作りました。都市国家は、周囲を城壁で囲み、中心部にジッグラト (ziggurat) という神殿が置かれました。国王は神官を兼ねており、神の代理者として神権政治が行われました。またシュメール人楔形文字 (cuneiform) (写真)を使い、バビロニア数字 (Babylonian numeral)、六十進法 (sexagesimal)、太陰太陽暦 (lunisolar calendar)、七曜、閏年 (leap year) の整備を行いました。また後のハンムラビ法典 (the Code of Hammurabi) に結びつくシュメール法 (Cuneiform law) という法典が生み出されました。文化面では、「ギルガメシュ叙事詩 (the Epic of Gilgamesh)」などの叙事詩が作られ、のちの旧約聖書 (the Old Testament) のノアの方舟 (Noah's Ark) 伝説の原型となりました。

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By Mbzt Own work, CC BY 3.0, Link

海の民がヒッタイトを後退させると、セム (Semitic languages) 系のアラム人 (Arameans) 、フェニキア (Phoenicians)、ヘブライ(Hebrews) がシリアやパレスチナ地域で活躍しました。

アラム人は前1200年ごろにアラビアからシリア地方に移り、ダマスクス (Damascus) を中心にラクダの隊商を組織し、内陸貿易で栄えました。そのため、アラム語 (Aramaic) がアケメネス朝やオリエントの国際語となり、アラム文字 (Aramaic alphabet) (写真)が広く伝わりました。

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By Unknown artist - Jastrow (2007), Public Domain, Link

フェニキア人は前12世紀ごろから地中海 (the Mediterranean Sea) 沿岸に都市国家を建設し、地中海貿易で栄えました。フェニキア人は、カナーン (Canaanites) の使用した表音文字を線文字化してギリシア人に伝え、これが現在用いられているアルファベットの起源となりました。

ヘブライ人は前1500年ごろにカナーン (Canaan) に定住し、一部はエジプトに移住しましたが、前13世紀ごろモーセ (Moses) に率いられてエジプトを脱出、カナーンに戻ってきました。

前1000年ごろにヘブライ王国を建て、イェルサレム (Jerusalem) を首都としてサウル (Saul)、ダヴィ (David)、ソロモン (Solomon) 三王のもとで繁栄しました。ソロモン王の死後、前922年ごろ、ヘブライ王国は北のイスラエル王国 (the Kingdom of Israel) と南のユダ王国 (the Kingdom of Judah) に分裂し、イスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は前586年にネブカドネザル2世 (Nebuchadnezzar II) 率いる新バビロニア (the Neo-Babylonian Empire) に併合され、ヘブライ人はバビロンへ強制移住させられました。これをバビロン捕囚 (the Babylonian captivity) といいます。アケメネス朝のキュロス2世 (Cyrus II) が新バビロニアを滅ぼし、ようやく帰国が許されました。

帰国後、ヘブライ人はイェルサレムに神殿を再建し、ユダヤ教 (Judaism) を打ち立てました。これは、旧約聖書 (the Old Testament)を教典とし、ヤハウェ (Yahweh) を唯一神として信仰するというもので、ヤハウェに救われるのはヘブライ人だけであるという選民思想を持っていました。

アッシリアは、前7世紀にエジプトを征服してオリエントをほぼ統一し、ニネヴェ (Nineveh) に都を置きました。王アッシュル=バニパル (Ashurbanipal) はニネヴェに世界最古の図書館を作るなど文化の発展にも寄与しましたが、前612年にアッシリアは滅亡しました。

滅亡後、オリエントはエジプト、メディア (Media)、リディア (Lydia)、新バビロニアの4国が分立しました。

前550年にはアケメネス朝のペルシア人、キュロス2世がメディアを滅ぼし、リディア、新バビロニアをも征服しました。次の王カンビュセス2世 (Cambyses II) がエジプトを征服し、前525年にオリエントを統一しました。

その次の王ダレイオス1世 (Darius I) は、全国を (satrapy) に分け、それぞれにサトラップ (satrap) という知事に相当する職を置き、これを監視する王の目 (eye of the king) を派遣しました。また王の道と呼ばれる国道や駅伝制を整備し、外部との貿易を盛んにしました。またペルシア語、アラム語などを公用語とし、楔形文字を表音化したペルシア文字を使い、ゾロアスター教 (Zoroastrianism) を奨励しました。

エーゲ文明

エーゲ海 (the Aegean Sea) 沿岸部は良港に恵まれていることから、交通の要衝となりました。前3000年ごろ、小アジアからの移住者が青銅器 (bronze) 文化をもたらし、前2000〜前1400年ごろからはミノス文明 (Minoan civilization/civilisation)、前1600〜前1200年ごろにはミケーネ文明 (Mycenaean civilization/civilisation) が栄えました。同時期にはギリシアトロイア (Troy) でトロイア文明が栄えましたが、前13世紀ごろにトロイア戦争 (the Trojan War) でミケーネ連合軍の攻撃を受け滅亡しました。この時のトロイの木馬 (the Trojan Horse) などの伝説がホメロス (Homer) 著「イリアス (Iliad)」や「オデュッセイア (Odyssey)」に記されています。

前1200年ごろになると、鉄器を使うドーリア (Dorians) が南下し、ギリシア鉄器時代に以降しました。ギリシア人もドーリア人のほか、アイオリス人 (Aeolians)、イオニア人 (Ionians) に分かれました。

前8世紀になると、ギリシアポリス (polis 複数形は poleis) と呼ばれる都市1000以上による都市国家に分立しました。アテネ (Athens) やスパルタ (Sparta) などもポリスの1つです。ギリシア人は自分のことをヘレネス (Hellenes)、異民族をバルバロイ (barbarians) と呼んで区別しました。ポリス同士は、ともにデルファイの神託 (the Oracle of Delphi) を尊重し、オリンピア (Olympia) での競技会 (Olympic Games) に参加するなどしました。

ポリスの中心部にはアクロポリス (acropolis) があり、その麓にあるアゴ(agora) と呼ばれる広場に政治・経済の中心がありました。

Attica 06-13 Athens 50 View from Philopappos - Acropolis Hill.jpg
By A.Savin (WikiCommons) - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
Map ancient athens.png
By Singinglemon - Own work, Public Domain, Link

アテネの場合、アルコン (archon 複数形 archontes) と呼ばれる貴族から選ばれた人が都市を統治しました。前7世紀後半にはドラコン (Draco) が慣習法を成文化しました。前594年にアルコンに選ばれたソロン (Solon) もさまざまな政治改革をしました。貴族政 (aristocracy) だったアテネは次第に力を持った平民に取って代わられるようになりました。新たに政権を握った平民のことを僭主 (tyrant) と言います。クレイステネス (Cleisthenes) はそのような僭主政治を防ぐために、前508年に陶片追放の制をもうけるなどの改革を行いました。

スパルタでは、リュクルゴス (Lycurgus) が厳しい軍国的・鎖国的体制をとり、ヘイロータイ (helots) やペリオイコイ (perioeci) などの民を支配しました。

前500年ごろ、イオニス人の反乱 (the Ionian Revolt) をきっかけにアケメネス朝がギリシャに遠征してきました。アテネは前490年、これをマラトンの戦い (the Battle of Marathon) で打ち破りましたが、前480年にペルシア王クセルクセス1世 (Xerxes I) がスパルタをテルモピレーの戦い (the Battle of Thermopylae) で破り、さらにアテネも占領しました。しかし、テミストクレス (Themistocles) 率いるギリシア艦隊がサラミスの海戦 (the Battle of Salamis) でペルシア軍を破り、プラタイアの戦い (the Battle of Plataea) で完全勝利しました。

前443年からは将軍ペリクレス (Pericles) が政権に就き、アテネの黄金時代 (the Golden Age of Athens) を築きました。

ペルシア戦争後、アテネは周辺のポリスとデロス同盟 (the Delian League) を結び、アテネ帝国 (the Athenian Empire) を作りました。一方スパルタもまた周辺のポリスとペロポネソス同盟 (the Peloponnesian League) を結びました。こうしてアテネとスパルタは対立していき、ペロポネソス戦争 (the Peloponnesian War) へと発展していきました。この戦争はペルシアの支援を受けたペロポネソス同盟側の勝利に終わりました。

ペロポネソス戦争後、ギリシアのポリスは次第に内部抗争がおこって衰退していき、前338年には北方のフィリッポス2世 (Philip II) 率いるマケドニア (Macedonia) がカイロネイアの戦い (the Battle of Chaeronea) を経て全ギリシアを統一し、コリントス同盟 (the League of Corinth) をスパルタ以外の全ポリスで作らせて支配しました。

前336年にフィリッポス2世が暗殺され、その子アレクサンドロス大王 (Alexander the Great) が即位後、東方遠征を行いました。前333年のイッソス (Issus) の戦い、前331年のガウガメラ (Gaugamela) の戦いを経て、前330年にダレイオス3世 (Darius III) のアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、ギリシア、エジプトからインダス川に達する大帝国を作り上げました。ギリシア人も東方に移住したため、東西文化が融合してヘレニズム文化となりました。

アレクサンドロス大王は32歳で急死し、その後、後継者たちがディアドコイ (Diadochi) と称して対立し、帝国はプトレマイオス朝エジプト (Ptolemaic Egypt)、セレウコス朝シリア (Seleucid Empire)、アンティゴノス朝マケドニア (Antigonid Macedon) の3つに分裂しました。

都市国家ローマ (Rome) にも前8世紀ごろからラテン人 (Latins) により建てられました。ローマでは当初エトルリア人 (Etruscans) の王がいましたが、前6世紀末に追放され共和政 (republic) となり、パトリキ (patrician) と呼ばれた貴族と、貴族による元老院 (Senate) が実権を持ち、1年任期のコンスル (consul) という執政官が行政や軍事を担当しました。平民はプレブス (plebs あるいは prebeians) と呼ばれ、その権利を守る護民官 (tribune of the plebs あるいは plebeian tribune) がいました。

前450年ごろに、十二表法 (the Laws of the Twelve Tables あるいは the Twelve Tables) というローマ最古の成文法が制定されました。前367年にはリキニウス・セクスティウス法 (the Licinio-Sextian Rogations) が施行され、コンスルのうち1人は平民から選出されることになりました。前287年には、ホルテンシウス法 (the lex Hortensia / the Hortensian law) が制定され、平民からなる平民会 (the Plebeian Council / the Plebeian Assembly) の決議が元老院の承認なくそのまま法律になることと定められました。

Second Punic War full-en.svg
By This W3C-unspecified vector image was created with Inkscape. - Travail personnel. La carte est vectorisée à partir de Image:Europe_topography_map.png. Les lieux sont repérés grâce à Image:Battles second punic war.png et cette carte sur Britannica. L'image des épées qui symbolisent les batailles a été obtenue à partir d'openclipart.org (Chrisdesign, public domain)., CC BY-SA 3.0, Link

ローマは前3世紀前半に半島を統一し、前264年からはカルタゴ (Carthage) との間でポエニ戦争 (the Punic War) が起こりました。カルタゴの将軍ハンニバル (Hannibal) によってローマは苦戦しましたが、ザマの戦い (the Battle of Zama) でスキピオ・アフリカヌス (Scipio Africanus) 率いるローマ軍が反撃、ハンニバルを破り、前146年についにカルタゴを滅ぼしました。その時の征服地はラティフンディア (latifundium) として収益をあげ、捕虜らは奴隷となりラティフンディアなどで働かされました。また平民は無産者 (proletariat) となり、パンとサーカス (bread and circuses) を要求し働かなくなっていきました。

前133年から、ティベリウスグラックス (Tiberius Gracchus) とガイウス・グラックス (Gaius Gracchus) の兄弟が護民官となり、貴族の土地所有を制限して貧民に土地を分け与え自作農を増やそうとしましたが、元老院と対立、ティベリウスは暗殺されガイウスは自殺しました。

この頃から「内乱の一世紀 (the Crisis of the Roman Republic)」と呼ばれる平民と貴族との対立が始まりました。平民会基盤の平民派 (populares) と、元老院議員からなる閥族派 (optimates) が対立、さらに前73年には奴隷の剣闘士 (gladiator) スパルタクス (Spartacus) が反乱を起こすなどしました。こうして、前60年ごろには、閥族派ボンベイウス (Pompey)、平民派のユリウス・カエサル (Julius Caesar)、騎士のマルクス・リキニウス・クラッスス (Marcus Licinius Crassus) が元老院に対抗して国政を独占し、第1回三頭政治 (triumvirate あるいは triarchy) が始まりました。ガリア戦争 (the Gallic Wars) で名を上げたカエサルボンベイウスを倒し、クラッススも戦死したため、カエサルによる独裁政治が始まりましたが、程なく元老院側の共和主義者デキムス・ユニウス・ブルートゥス・アルビヌス (Decimus Junius Brutus Albinus) らに暗殺されました(写真)。

Jean-Léon Gérôme - The Death of Caesar - Walters 37884.jpg
By Jean-Léon Gérôme - Walters Art Museum:   Home page   Info about artwork, Public Domain, Link

カエサルの死後、養子のオクタウィアヌス (Octavian)、部下のアントニウス (Antony) とレピドゥス (Lepidus) による三頭政治が始まりました。レピドゥスが失脚し、アントニウスもエジプトの女王クレオパトラ (Cleopatra) と連合してローマを攻めましたが、アクティウムの海戦 (the Naval Battle of Actium) で敗れたため、オクタウィアヌス覇権 (hegemony) を握り、元老院からアウグストゥス (Augustus) の称号を贈られたあとは、元首政 (principate) をしき、ローマ帝国 (the Roman Empire) としてパクス・ロマーナ (Pax Romana) を実現しました。

Statue of Augustus
By Till Niermann - Own work, Public Domain, Link

インダス文明

インダス文明は、インダス川 (the Indus River) 流域で起こったもので、稲作、麦作を中心とする農業が発達しました。シンド地方のモエンジョ=ダーロ (Mohenjo-daro) やパンジャーブ地方ハラッパ (Harappa) などの都市遺跡が有名です。

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モエンジョ=ダーロ
By Junhi Han - This place is a UNESCO World Heritage Site, listed as Archaeological Ruins at Moenjodaro., CC BY-SA 3.0 igo, Link

View of Granary and Great Hall on Mound F - Archaeological site of Harappa .jpg
ハラッパ
By Muhammad Bin Naveed - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

前2000年ごろ、中央アジアの部族だったアーリヤ人 (Aryan) がパンジャーブ地方に進入し、村落を作り定着しました。ラージャンとよばれる族長のもと、牧畜や農耕を行い、牛を神聖視し、ヴェーダ (Vedas) という書物に記された儀礼や賛歌を行いました。このヴェーダは前10世紀以降バラモン教 (Brahmanism) の聖典となりました。

前1000年ごろ、アーリヤ人ガンジス川流域に進出して定住し、鉄器の使用を始め、農業生産力が飛躍的に向上しました。社会階級が分化・固定化していき、

などのヴァルナ (Varna) という身分制度が成立、カースト制度 (caste) となっていきました。

バラモン教バラモンたちが権威を高めるために儀礼を複雑化し、形式主義に陥ったため、不満が高まり、前5世紀ごろヴァルダマーナ (Vardhamana) によるジャイナ教 (Jainism)、ガウタマ=シッダールタ (Gautama Siddhartha) による仏教 (Buddhism) が起こりました。

ガンジス川中流域のコーサラ (Kosala) とマガダ (Magadha) という国が台頭していましたが、前5世紀ごろにマガダがコーサラを併合して流域の大部分を支配しました。前4世紀のアレクサンドロス大王 (Alexander the Great) の侵攻に乗じ、チャンドラグプタ=マウリヤ (Chandragupta Maurya) がマガダ国にマウリヤ朝 (the Maurya Empire) を開いて、パータリプトラ (Pataliputra) を都としました。

Maximum extent of the Maurya Empire, as shown by the location of Ashoka's inscriptions, and visualized by historians: Vincent Arthur Smith;[7] R. C. Majumdar;[8] and historical geographer Joseph E. Schwartzberg.[9]
マウリヤ朝の領域(前250年ごろ)
By Avantiputra7 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

マウリヤ朝は第3代のアショーカ (Ashoka) 王の時代に全インドを統一し、仏塔 (stupa) を建てたり仏典の編纂をしたりスリランカなどに布教したりして仏教の振興に尽力しました。

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は周辺民族の侵攻を受け、1世紀にイラン系のクシャーナ族がクシャーナ朝 (Kushan Empire) を建てました。カニシカ王 (Kanishka the Great) の時代に都をガンダーラ (Gandhara) の中心都市プルシャプラ (Purushapura) (現在のパキスタンペシャワール (Peshawar))に遷都し、仏教の結集に尽力しました。

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クシャーナ朝の領域
By PHGCOM - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

仏教は、龍樹ことナーガールジュナ (Nagarjuna) が大乗仏教 (Mahayana) の理論を確立し、菩薩 (Bodhisattva) を中心に信仰によって万人を救済する考え方が起こり、中国や東アジアに広まっていきました。これに対し、厳しい修行を経て自己の救済を目指す上座部仏教 (Theravada) はスリランカや東南アジアへ伝わっていきました。

北インドクシャーナ朝に対し、南インドでは1世紀ごろにサータヴァーハナ朝 (the Satavahana Empire)(アーンドラ朝 (the Andhras))がデカン (Deccan) 高原一帯を支配しました。

中国文明

中国文明は、中国の黄河 (the Yellow River) や長江 (the Yangze River)、遼河 (the Liao River) の流域で起こった、畑作農業や高褐色の陶器 (china)、磨製石器などの文明です。かつては黄河文明と言われていましたが、今では中国の他の地域でも同様の文明が発見されているため、中国文明あるいは「黄河・長江流域の文明」のような言い方がされるようになっています。

中国の歴史についてはこちらもごらんください。

前5000〜前4000年ごろ、黄河流域一体に広がる黄土地帯に農耕文化が起こりました。彩陶とよばれる土器(写真)が出土したことから、この辺りの農耕文化のことを彩陶文化と呼ぶことがあります。またこの土器が最初に出土した土地の名をとって仰韶文化 (the Yangshao culture) ともいいます。

Pot; painted earthenware; in the Shijia style; Shaanxi History Museum
By Prof. Gary Lee Todd - [1], CC BY-SA 4.0, Link

前3000年ごろには、黒陶文化 (the Black Pottery Culture) が現れました。最初に出土した土地の名をとって龍山文化 (the Longshan culture) ともいいます。

Longshan eggshell thin cup. VandA.JPG
By Ismoon, CC0, Link

前16世紀ごろ、古代中国は (Yao)・ (Shun)・ (Yu) と呼ばれる聖人が治めたという伝説があり、禹が最古の夏王朝 (the Xia dynasty) を開いたとされていますが、夏王朝の実在性は明らかになっていません。

現在確認されている最古の王朝は (Yin) です。伝説によれば夏を滅ぼして殷を建てたとされています。亀甲や獣骨に甲骨文字 (oracle bone script) (写真)が書かれ、占いに用いられたようです。このように祭政一致神権政治が行われており、祭りの道具として青銅器 (bronze) が多く使われました。

An oracle bone (which is incomplete) with a diviner asking the Shang king if there would be misfortune over the next ten days
By Editor at Large - Own work, CC BY-SA 2.5, Link

前11世紀ごろ、殷は西方の渭水盆地に興った (Zhou) に滅ぼされました。渭水 (the Wei River) 流域の鎬京 (Haojing) を都とし、地域の有力者に土地を与える代わりに貢納と軍役の義務を負わせる封建制度 (feudalism) を作りました。

前771年、西方の異民族犬戎 (Quanlong) により鎬京が占領され、翌年、周王室は東方の洛邑 (Luoyi) に遷都しました。これ以降を東周 (Eastern Zhou)、これ以前を西周 (Western Zhou) といいます。このあと周の勢力は衰えていき、春秋時代 (the Spring and Autumn period) が始まりました。周辺の有力諸侯は周王の権威を利用しつつライバルを蹴散らして覇権を握る尊王攘夷を唱えて活動を始めました。特に (Qi) の桓公 (Duke Huan)、 (Jin) の文公 (Duke Wen)、 (Song) の襄公 (Duke Xiang)、 (Qin) の穆公 (Duke Mu)、 (Chu) の荘公 (Duke Zhuang) は春秋の五覇 (the Five Hegemons) と呼ばれ有名です。

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前260年ごろの中国
By Philg88 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

前403年に晋から分裂した (Han)・ (Wei) ・ (Zhao) が周王に国として認められ、これ以降を戦国時代 (the Warring States period) と呼びます。斉・楚・秦・ (Yan)・韓・魏・趙の7国を戦国の七雄 (the Seven Warring States) といいます。この時代は各国が有能な人材を登用し、諸子百家 (the Hundred School of Thought) と呼ばれる学者や思想家が排出されました。

秦王の (Zheng) は、法家の李斯 (Li Si) を登用して富国強兵策をとり、前221年に中国の統一を果たしたあと、王に代えて皇帝 (emperor) の称号を採用し、始皇帝 (Shi Huangdi) (写真)と名乗りました。秦では、全国を (commandery) に分け、1郡をさらに (county) に細分化して中央から官吏を派遣して全国を一律に支配する郡県制 (the commandery system) という制度をとりました。また貨幣や度量衡、文字も全国統一しました。

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始皇帝
By Unknown (18??–18??) - Portal, Jane (Ed.). The first emperor: China's Terracotta Army. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press, 2007 ISBN 978-0-674-02697-7 Invalid ISBN (p.29) Updated image from National Geographic, Public Domain, Link

国防面では、北方から匈奴 (Xiongnu) がたびたび華北平原に侵入してくることがあったため、軍を送って匈奴を討伐することのほかに、北辺に万里の長城 (the Great Wall of China) を修築し守りを固めました。

さらに、李斯の進言により、自然科学系や秦の歴史を除く書籍をことごとく焼き捨て、諸子百家を弾圧する焚書坑儒 (Burning Books and Burying Confucianists) とよばれる思想統制を行いました。

このような法家 (fajia; legalism) 思想による厳格な統治は人民の反発を招き、始皇帝の死の翌年の前209年、陳勝呉広の乱が起こり、統一後わずか15年で秦は滅びました。

陳勝呉広の乱で有力だったのは楚の項羽 (Xiang Yu) ですが、農民出身の劉邦 (Liu Bang) に攻められ、垓下の戦い (the Battle of Gaixia) で敗れました。劉邦は前202年、 (Han) を建国し、高祖 (Emperor Gaozu) となりました。都は初め洛陽 (Luoyang) におきましたが、後に長安 (Chang'an) に移しています。高祖は秦の郡県制を取り入れつつ、封建制度も併用しました。これを郡国制といいます。しかし第6代景帝 (Emperor Jing) の時代の前154年、呉楚七国の乱 (the Rebellion of the Seven States / the Revolt of the Seven Kingdoms) が起こったため、第7代武帝 (Emperor Wu) は封建制度を縮小し、事実上の郡県制と中央集権体制に移行していきました。

また武帝は北方の匈奴に遠征軍を送ってゴビ砂漠 (the Gobi Desert) の向こうへ追いやりました。同時に周辺への支配を広げていき、西方では、タリム盆地に点在する都市国家を支配したり、月氏 (Yuezhi) に張騫 (Zhang Qian) を遣わして同盟交渉したり、大宛 (Tayuan) と交易を図ったり、西の玄関口である敦煌 (Dunhuang) などに郡を置いたりしました。朝鮮半島古朝鮮 (Gojoseon) つまり衛氏朝鮮 (Wimang Joseon) も平定して楽浪郡 (the Lelang Commandery) や玄菟郡 (the Xuantu Commandery) などを置きました。南方では南越 (Nanyue) や周辺国を滅ぼしました。周辺国の1つ、夜郎 (Yelang) では、漢からの使者に対し世間知らずの王が「漢と我が国とどちらが大きいか」と問うたという、夜郎自大の故事が残っています。

Han Expansion.png
漢の拡大範囲
By SY - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

中央アジア

モンゴル高原からカスピ海沿岸部までの中央アジアでは、遊牧民 (nomad) が興亡しました。最初の遊牧民は前9世紀〜前8世紀ごろの騎馬遊牧民で、部族ごとに行動し、騎馬を使った軍事力をもっていました。

最初の遊牧国家は前6世紀〜前4世紀ごろにかけて興ったスキタイ (Scythians) で、金属器文化を生み出しました。

モンゴル高原に前4世紀末ごろ出てきた匈奴 (Xiongnu) は、単于 (Chanyu) という王を中心とした強大な遊牧国家で、しばしば戦国時代の秦や趙、燕などに侵入を繰り返しました。前3世紀末には冒頓単于 (Modu Chanyu) が漢の高祖を破りました。しかし漢の武帝の時代になって西域から後退させられたあと、匈奴は勢力が弱くなり東西に分裂、西匈奴は漢と東匈奴に攻められ滅亡しました。

    
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参考